地域の教育力の認識違い



 ここ数年、「地域の教育力」という言葉がよく使われるようになった。



 学習指導要領のような全国的な公式文書では使われていないが、平成10年の中教審小委員会の議事録や、今年の3月末に発足した教育改革国民会議の座長挨拶にも「地域の教育力」という言葉がはっきり見えるので、市民権を得た言葉のようだ。



 都道府県等の地方自治体では「地域の教育力の活性化」というような表現で社会教育等の重点に掲げているところが多いし、各学校では「総合的な学習の時間」や「開かれた学校づくり」と関連して「地域の教育力の活用」を謳っているところも多い。



 言葉の表現が同じなので、ここに出てくる「地域の教育力」が全て同じことのように感じられるのだが、よく吟味してみると、使われる文脈が違うと「地域の教育力」という言葉の意味もかなり違うようだ。



 最初の例にあげた中教審や教育改革国民会議では「家庭や地域の教育力の低下により青少年の社会性が欠如し‥‥」という具合に、現在失われつつあるものとして、やや消極的に扱われている。



 それに対して、地方自治体や学校の教育計画などでは、「地域の人材等の教育力を活用して‥‥」というように、具体的・積極的な扱いになっている。

 学校の現場では、「田植えなどの指導をしてくれる農家の人」、「昔の遊びを教えてくれるおばあさん」、「書道の指導が得意な退職教員」などを「ふるさと先生」などと呼んで、学校の教師だけでは不十分な指導の手助けをしてくれる人材として活用しようという試みも行われるようになってきた。このような人々のデータをまとめた「地域の人材一覧」などの資料の整備も行われている。

 これはこれでよいことではある。子供たちの多様な「学びたいという意欲」に対応するには、それほど多様な知識があるわけではない我々教師だけでは不十分だからだ。



 しかし、地域の人材を活用することで、地域の教育力を増大できるのかというと、ちょっと違っているような感じがする。



 中教審などで言っている「地域の教育力の低下」は、そういうものではないだろう。きちんと文脈を読むと「家庭や地域の教育力の低下」なのである。「教育力」というとき、何を教育する力なのかが問題になる。



 地域の人材活用の例では、それは知識や技能である。しかし「家庭や地域の教育力の低下」という場合には、低下しているのは知識や技能ではないだろう。これが低下しているために「青少年の社会性が欠如してきた」というのだから、「家庭や地域の教育力」とは、「生き方や社会性を育てるもの」つまり道徳的な側面をもつものであるはずだ。

 知識や技能などのいわゆる「勉強」を教える能力の面では、学校や塾の教師はプロである。しかし教師の家庭の全てに「家庭の教育力」があるかというと、そうとは言い切れないことは、皆さんご存知のとおりだと思う(^^;)



 では、地域の教育力というのは具体的にはどんな場面で働くのであろうか。

 私はこんな例を思い浮かべる。



 「オラホだけかな」No.30「おまわりの習慣」でも触れたが、私はずっと自分の地域(町内会)の親睦団体に参加してきた。

 この団体には私の父親も参加していた(ただ、20歳から40歳までが加入する団体なので同じ時期に私と父が一緒に参加していたことはないが)

 この中で、いろいろなことを先輩の会員から教えられた。卑近なところではじょうずな酒の飲み方から、氏神様の拝み方、冬囲いの仕方や、町内で寄付を集めるときの口上の述べ方、年長者の敬い方、団体のまとめ方に至るまで、時には厳しく、時には優しく教えてもらい、なんとか近所づき合いができるようになったのである。

 私に教えてくれた先輩たちは、同じようなことを私の父の年代の人たちに教えてもらっている。また私も自分より年下の人たちに同じことを伝えてきた。



 これが地域の教育力なのではないかと思う。



 この内容を、家庭の中で父が私に教えてもいいだろうし、私が自分の子供に教えてもいいのだが、20歳・30歳と年が離れている親子の関係では、なかなか素直に受け入れてもらえない部分もある。「そんな昔のことを言ったって、時代が違うんだから」と反発してしまうこともある。

 そのへんをうまく補ってくれていたのが、この地域の教育力だと思う。

 こういうつき合いが薄れてきた(意識的にこういうことを避ける人が増えてきた)という事実は否めない。地域の教育力の低下というのは、こんなことが大きな要因になっているのではないだろうか。



 例として青年期における地域の教育力をあげたが、子供の社会においても同じである。「うんちく講座」No.42「心の教育もいいけれど」でも触れているのだが、スポーツ少年団・部活動・塾などの普及により、異年齢の子供が一緒に遊ぶという集団が崩壊・消滅してしまった。

 自分より5つも6つも年上の子と遊ぶ、あるいは逆に小さい子のめんどうを見ながら遊ぶという体験がなくなったことによっても、子供の社会性は失われてきている。また、遊びの中で近所の大人とのつき合い方なども身につけていたのだが、今はそういう機会もほとんどなくなった。



 本当の意味で、地域の教育力を復活させたいのならば、地域での子供集団の再構築とか、地域団体への積極的参加、近所づき合いの親密化などの手だてをとらないといけないのではないかと思う。



 学校教育に(教師以外の)地域の人材を活用することは、学習指導の側面から見たら良いことである。また教師以外の地域の人々とふれあうということで、副次的には地域での人間関係が深まるという効果もあるかもしれない。

 しかし、これはどちらかというと、学校教育に便利だからという感じが強い(もちろん子供にとっては良い効果が大きいのだが)



 学校で謳っている積極的な意味合いでの「地域の教育力」は、もう少しくだいてみると、「地域」にいる「教育」を行うことができる能「力」がある人という意味のように思える。



 しかし、こういう視点でリストアップされた方々の中には、自分自身ではあまり地域に関わった生き方をしていない人もけっこういるのではないだろうか。

 こういう言い方をすると反発もあるかもしれないが、学校の先生などは自分の受け持った子供の教育に熱心であればあるほど、自分自身の住む地域との関わりがないという実態もある(そうでない方もたくさんいるのだが)

 先に例としてあげた「書道の指導が得意な退職教員」が、もしそういう方ならば、地域との関わり方を子供たちに指導することはできないかもしれない(実際には退職後に積極的に地域に関わられている方が多いことも見ているが)むしろ特別な技能を持たなくても、隣の子を本気で叱ってくれたり、その子の家族がみんな出かけなければならないときに自分の家で一晩めんどうをみてくれるような人のほうが、地域との関わり方を教えてくれる人としては適当なのかもしれない。(それを無理に学校という場で行う必要もないのだが‥‥)



 今必要とされているのは「地域の(教育)力」であると思う。低下しているのは地域の力そのものなのだ。

 本当に地域の教育力を活性化させるには、教育力・地域力が低下している現状を認識し、もっと別のアプローチを行わなければならないようにも思う。



 「近所づき合いはめんどうでイヤだ」、「休みの日は誰とも話さないで寝ていたい」、「家族だけでゆっくり過ごしたい」、「我が子のスポーツの試合の応援が第一なので、地域の行事には参加できない」などという気持ちは私にもよくわかる。しかし、こういった気持ちが地域の教育力を低下させている大きな原因なのだろうと思う。

 教師自身も、親も、自分から積極的に地域に関わっていくことこそが「地域の教育力の活性化」につながる。地域の人材を活用しただけで満足しているのでは他人任せだと言われてもしかたないだろう。



 私の個人的な感覚では、自分の時間の全てを学校教育のために費やす先生よりも、自分の住む地域の行事等のために、たまには学校を休んだりするような先生のほうが、よい先生のような気もする(^^;)
<00.06.08>


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