心の教育もいいけれど



(長文になります。無理して最後まで読まなくてもいいです。)

私の立場
 教育についての話題の場合、現職の小学校教頭である私の意見は、単純に「私見」とは言い切れない。公的な教育機関である小学校での教育活動の推進は、その基準となる文部省の学習指導要領に沿って行わなければならないし、個人の考えのもとに、文部省で出している方向性と違った教育を進めることは許されない。
 しかし、考えを持つことは自由である。保護者を集めて自分の考えをしゃべりまくる講演会を開くなどという自分の立場を濫用することは慎まなければならないが、私的な場で私見を述べるのは問題がないだろう。むしろ多くの人がまったく本音を語らないということに問題があるようにも思う。

 私はここでは本音を語りたい。もちろん小学校教頭として、自分の学校の職員・児童・保護者に押しつけるような意味でではなく、このホームページを読んでくださる皆さんに発信する「佐々木彰個人としての意見」であることを、ここで確認しておく。


「心の教育」もいいけれど
 「心の教育」がいろいろな場で論議されている。神戸の小学生殺人事件を機に、子供たちの心が病んでいることが改めて認識され、それに対応するために中教審や教課審などで、道徳教育等に力を入れた「心の教育」が必要だという意見がたくさん出てきている。
 ちょっと考えてみていただきたい。
 子供の心が病んできたのは、道徳教育が不足していたからではない。もっと大きな原因がある。そのことに気づかないで、その場しのぎの対応をしただけでは、やがて死が訪れる。「木を見て森を見ない」対応だと考える。原因そのものに対応しなければいけない。


原因は「子供の世界を奪ったこと」
 現代の子供がおかしくなった原因は、「大人が子供の世界を奪ったこと」にある。別の言い方をすれば「大人が子供にかかわりすぎたこと」である。具体的な事例はいくつかあるが、その1つの例として「スポーツ少年団」があると私は思っている。
 私自身、長い間、スポーツ少年団の指導にかかわってきたし、スポーツ少年団の親の会の会長も経験した。その素晴らしさもじゅうぶんにわかっているつもりだし、現在、一生懸命にスポーツ少年団の指導や育成に努力している方々を非難したりする気は毛頭ないが、これからの子供たちの心の成長を考えるときに、現在のスポーツ少年団の抱える問題点を避けては通られないと思う。
 今、急激な変化を求めることはできないが、今後ゆるやかに改善を図っていくという意味で、(下に述べる文章に刺激的な部分もあるかもしれないが)、ともに考えていく資料として読んでいただければ幸いである。


スポ少を考える
 スポーツ少年団の発足は昭和37年なのだそうだが、私の地域では昭和40年代後半にどこの町でも一斉にスポーツ少年団(以下スポ少と呼ぶ)組織が作られたように記憶している。初期の段階では西欧の同種の団体を真似て、レクリエーション活動なども含めた広範な運動をやる団体であったようだが、次第に種目の専門化が進み、昭和50年代には中学校の運動部の小学校版のようなかたちになってきた。これは選手層の底辺の拡大と優秀選手の発掘育成をねらう各種スポーツ協会の思惑がはたらいたように思える。それまで文部省で禁止していた小学生の郡市外の学校との対外試合が、管轄が違う団体である(厚生省・日本体育協会)という大義名分のもとに公然と行われるようになり、全国大会を頂点とする構図ができあがった。親の会等の母集団の整備も進み、青少年の健全育成・健康増進を建前としながらも実際は試合での勝利をめざす体質となり、練習や試合の加熱が進んでいった。
 スポ少組織が完成したとき、それまであった地域の子供たちの縦のつながりは断ち切られてしまった。また子供の遊び場であった学校のグラウンドや体育館はスポ少の練習のために使用され、低学年の小さい子たちの遊び場は奪われてしまった。ガキ大将はいなくなり、スポ少指導者や親の会などが全ての段取りをするようになったため、大人の助けや助言・命令がなければなかなか行動できない子供が増えてきた。
 試合の日ともなれば、親の会のママさんたちは、ちびっ子選手のためにユニフォームの洗濯、食べ物の準備、道具などの荷物運びとかいがいしく世話をし、子供たちはそれが当然と受け取るようなわがままで生意気な人間になった。
 親は親で、たしかに休みの日ごとに子供と一緒に行動はするが、我が子と直接言葉を交わすこともなく、試合が終わればちびっ子選手サマたちに慰労会のごちそうを食べさせ、その後は親の会の飲み会。まったくおかしな一日である。
 かくして、日本の子供たちはおかしくなってしまったのである。


子供の世界が子供を育てていた
 スポ少がない頃、学校が終わってから夕食までの時間は、子供の世界のものであった。
 はな垂れ小僧の1年生から声変わりをした大きな子供まで、毎日一緒に遊んでいた。何をして遊ぶか、面白いことを考え出せる子供が大将になった。「今日は何をして遊ぼうか、何をしたら面白いか」を学校にいるうちから子供たちは一生懸命考えていた。
 十人近くの集団で遊ぶことが多かったので、みんな楽しく遊ばせるにはどうしたらいいか、楽しく遊んでもらうにはどうしたらいいかを子供は身体で覚えていった。わがままで自己主張ばかりしている子は仲間外れにされた。仲間外れにされないためにはどうやって集団に適応したらいいかも自然にわかっていった。これは「いじめ」ではない。「人の顔色に気をつかう」ことは子供のうちに身につけなければいけないことである。「人に気をつかう」というとあまり良い意味で使われることがないが、「つかう」とは実は「遣う」であり、他者の立場に立って考えるという「思い遣り」と同じことである。
 自分の言動が他者にどんな影響を与えるか考えて行動することは人間として最も大切なことである。これは話して教えて覚えさせることではない。「心の教育」推進論では、道徳の教育が大切だと言っている。私も教師として道徳の時間の有効性は十分に認識している。しかし、道徳の時間というのは子供に指導したい道徳的内容を効率的に考えさせるための仮想現実・バーチャルリアリティである。子供は、あくまでもこれを「理解」するのであり、「体得」するのではない。(学力に関しては「単なる知識の詰め込みではなく、体験活動を通した能力の育成」をうたっているのに、心に関しては「指導」したがるのも変な話である)
 子供は子供同士の世界の中で、人間関係の葛藤などを通じながら、分別をわきまえ、思いやりを知り、心の成長をとげていくのである。自己中心なわがままや、被害妄想的いじけなどは、この時点で矯正されていたのである。仲間外れにされるのは相応の理由があるからであり、それから立ち直る力もここで身についていった。理不尽ないじめや仲間外れをする子供に対しては、それをやめさせるのがガキ大将であった。
 それでは個性が育たないと言う人もいるかもしれない。それでいいではないか。仲間外れにされて育たなくなる個性などは本当の個性ではない。それは「性格のゆがみ」と言う。人間社会にとって有害でありこそすれ必要なものではない。人間社会の進歩のために必要な個性(例えば「天才」など)は、どんなにたたかれてもそれに負けない力を持っていなければならない。
 ところが今の日本では、自己中心的な子供が他の子供たちから排斥されれば、大人がそれをすぐに「いじめ」と呼び、その子供が学校に行きたがらなくなると、「不登校の初期の段階の兆候だから、まずむやみに刺激しないでそっとしておく」というような対応をしてしまう。(もちろん、私は全ての不登校をこれでくくってしまうわけではない。本当に心身症などの原因で不登校になる子供もいる。)大人がよけいな手出しをしなければ子供の世界の中で自分の性格を矯正できたはずの子供が、これによって一生なおらないままで育ってしまう。
 でも、こうやって育った人間が大人になったときに、社会はきちんと受け入れてやるのだろうか。例えば会社に入ったとき、やるべき仕事をやらず、それを注意されると出勤しなくなるなどという人間は、世の中では通用しない。今、日本ではこういう人間を大量に育てているのである。しかも社会人になったときの受け皿はまったく用意していない。実に無責任な話である。


「心の教育」よりも、子供の世界を返すこと、放っておくことが必要
 今、子供たちは確かにおかしな状況にある。そしてそれに対応しようとして大人は更に愚を重ねようとしている。この文章もだいぶ長くなったので(もう誰も読んでいないかもしれないが)そろそろ整理してみよう。
 まず、子供たちの心は中学生になっても小学校低学年と同じ程度で未発達である。(全てそうだとは言えないが、かなりの部分あるいはかなりの子供において)
 それは、スポ少等によって子供の世界の縦のつながりが断ち切られ、同じ年齢の子供だけの世界に輪切りにされ、上下の年齢の子供たちとの接触によって子供自身の中に育つ「自分の行動を律する力」の成長がないまま、コンテナにつめられ列車で運ばれる荷物のように年齢だけを重ねていったからである。これは小学校でのスポ少だけでなく、中学校・高等学校においても部活動というかたちで続いている。
 これは、子供に対する大人の過保護・過干渉である。家庭においては過保護・過干渉はよくないと言われているが、日本は社会全体がそうである。しかもそれが子供の心の病みを生み出していることに気づかないで、よいことをしているつもりでいる。
 更に、今、それ以上の過干渉を行おうとしているようにも思える。
 繰り返し述べたように、子供の心のゆがみは、大人が子供の心を育てようと(勘違い)して、子供の世界を奪ってしまったことに起因している。原因を絶たない限りは問題は解決しない。「心の教育」も悪いことではないが、今、本当にやらなければならないのは、大人が子供の世界から手を引くことである。子供の世界をもう一度子供自身の手に返してやることである。
 スポ少や部活動の強制はやめた方がいい。ちょっと落ち着いて考えてみれば、子供が小学校4年生ころからずっと1つの種目のスポーツを毎日やることがいかにおかしなことであるか気づくだろう。
 スポ少をやめたら困るという人もいるだろう。各種スポーツの協会・連盟などは「世界に通用する選手が育たない」というかもしれない。でもオリンピックで日本がひとつもメダルをとれなくてもたいしたことではない。世界には数百の国がある。特別に身体的にもすぐれていない日本人がたくさんのメダルをとることのほうが異常である。勝利至上主義のスポーツの世界より、国民の誰もが余暇に気楽にスポーツを楽しめる方がずっといいにきまっている。
 スポ少がないと暇な時間に子供が悪いことをするかもしれないと心配するむきもあるだろう。しかしスポ少は託児所ではない。もし子供が悪いことをするとしたら、悪いことが何かも分からない子供にしている大人の責任である。子供の世界の中で子供は成長すべきである。小さな悪いことを体験しながらまともな大人になっていくのである。
 スポ少で得られる感動の体験がなくなってしまうという意見もあるだろう。私も長い間、指導者としてまた親としてスポ少に関わってきたから、子供たちが練習の苦しさに耐えたり、勝っても負けても涙を流すような体験をすることはじゅうぶんに分かる。しかし、そのために子供の頃に味わえる様々な感動の体験を失ってしまったこともよく分かっている。
 かくれんぼの鬼をして誰も見つけられず見上げた夕焼け、草いきれのする山の中で高学年の人から教えてもらった草笛が鳴ったときの喜び、夜遅くまで科学雑誌を見ながら作ったゲルマニウムラジオから音がかすかに聞こえてきたときの感動。そういったものが私には大きな宝物になっているのだが、今の子供たちには、それを体験する時間がない。
 日曜ごとに子供のスポーツの試合や大会のために親が弁当をつくってやり、応援に出かける。けっこうなことかもしれない。しかし、それをやめて、その時間を子供とのふれ合いにつかったらもっと有効な休日になるだろうし、もっといいのは子供を自由にしてやって、夕方子供が帰ってきたら「お帰り」と声をかけて晩ご飯をいっしょに食べることである。


子供たちに与えなければいけないもの
 スポ少などの場を与えてやり、高価な用具等を買い与えてやり、子供がすべきことまで世話をやいてやりと、今の日本の社会と大人はずいぶん頑張っている。それが過保護・過干渉であり、子供の成長に悪い影響を与えていることに気づかないまま。金と大人の労力を大量に与えているわりには本当の意味の愛情は与えていないようにも思える。
 押しつけなら「心の教育」もスポ少も部活もいらない。
 今、私たち大人が子供に与えなければならないものは、「愛と自由」これだけである。


長くてくどい文章に最後までおつき合いくださいました方、本当にありがとうございました。


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