おまわりの習慣
由緒正しい田舎の人(^^;)である私は、地域の行事等にもこまめに参加している。
学校の教師というと、あまり地域の団体などに参加しない人も多いようだが、私の場合、大工だった父がそういう団体や行事にはちゃんと参加していた様子を見て育ったので、私も大学を卒業して教師となり家に戻ってからは、ごく自然に地域の団体に加入した。
学校でも「ふるさと教育」などに力を入れているこの頃、それを指導する教師自身が、自分の住む地域と遊離しているようでは、絵空事の指導しかできないのではないだろうか‥‥という私の持論にかこつけて、自分の地域のお祭りのときなどは勤務を休んでしまう立派な教師である(^^;) まあこれについては賛否両論があるだろうが、それは今回のメインテーマではないので、このぐらいにしておこう(^^;)
さて、私が所属したのは「若者」(「わげもの」と読む)という団体であった。いわゆる町内会(私の地域では「部落」と言っているが)の20歳から40歳までの男性が所属する団体である。
現在は40歳を超えたので、若者を卒業した41歳から65歳の人たちで構成している「中軸会」という団体に所属している。
団体というとなにやら大げさに聞こえるが、要は親睦団体である。地域のお祭り等で仕事をするという役目もあるが、ほとんどは季節毎に様々な会で酒を飲むという団体である(^^;)
若者を例にとると、次のような会合がある。
3月末 花見(花を見るわけではなく、飲むだけだが‥‥)
5月頃 早苗振(さなぶりと読む。これも飲み会)
7月 宵宮(よみやと読む。部落の金刀比羅神社の例祭の前夜に
夜店を出したりしてイベントを行う)
9月 本祭り(地域の日枝神社の例祭の際に山車を出す)
11月頃 恵比寿講(えびすこと読む。大規模な飲み会)
中軸会では祭り関係の行事はなく、別に新年会を行うが、だいたいは似たようなものである。
まあ、だいたいが飲み会で、特に芸もないのだが(^^;) 近所に住む同年代の人たちが集まって、作業をしたり飲んだりするのは楽しいし、意義もある。お互い職種も違うのだが、いろいろな情報交換ができるし、特に私のように教職員とだけのつき合いが多いようなものにとっては、社会についての目を開かせられるという意味で貴重な機会なので、出来る限り参加するようにしている。
さて、それらの会合で、いつも行われるのが「おまわり」という儀式である。
これは、簡単にいうと「盃事」である。
飲み会が始まって少しすると、その会合の「宿」(やど)と呼ばれる当番の人が2人、座の前に出る。そこで目の前につがれた盃(実際にはコップを使うことが多い)の酒を一気に飲み干し、次にその盃が一座に回され、席についている人たちが順番に酒を飲むという儀式(?)である。
この「おまわり」は一度で終わらず、会の間に何回か繰り返される。
コップ1杯の酒となると、約1合(180ml)はあるので、これが2回・3回となると、それだけでかなりの量の酒を飲むことになる。
東北の人の特徴なのかもしれないが、私を含めて(^^;) うちの地域の人たちは、どちらかというと口が重い。しらふのときには、あまりぺらぺらとしゃべらないタイプが多いのである。
しかし、暗い人ばかりなのかというと、そうではない。酒が入ると饒舌になる人も多いのだ(私がその典型かな‥‥)
この頃、私が参加する飲み会(町内の飲み会ではない職場の飲み会など)では、酒を勧めても、「車で来ているので」とか、「飲めないので」という理由で、アルコール類を口にしない人も多い。まあ、それはそれでよいのだが、飲んでいる人間にしてみると、しらふの人が酒宴に混じっているのは、どうもぎこちないし、雰囲気も盛り上がらないという傾向がある。(実際には、飲まない人も、場を盛り上げてくれてはいるのだが)
そういう、今ひとつ盛り上がらない雰囲気を、一気に盛り上げようという、半ば強制的な方法が「おまわり」なのかもしれない(^^;)
この習慣は、私の住む「由利町前郷」地域では一般的に行われているようだが、特に私の部落である「馬喰町」では、おまわりが「凄い」という定評がある(^^;)
今はほとんど盃にガラスコップが使われているのだが、昔はランプの「ほや」(ガラスの部分)を使ったという話もある。これは底が開いているので、下の穴を掌で塞いだ状態で酒を注ぐのだそうだ。熱い酒を注ぐと掌が火傷しそうになるのだが、手を離してしまうと酒が下にこぼれてしまう。そこで一気に飲んでしまわなければならない。
ランプのほやに入る酒の量は1合どころではなく、どうみても2合以上はあるから、酔い方も大変なものだったろう(^^;)
私が若者に入っていた頃も、興が乗ると、夏みかんの皮を盃がわりにしておまわりをやったりしたものだ。
私が若者に入った頃から、おまわりは当然のこととして行われていたので、その起源について考えてみることもなかったのだが、この頃になって、そのルーツになるようなものを見つけた。
それは、私の地域の婚礼の盃事であるようだ。
平成12(2000)年3月27日に発行された「本荘市史 文化・民族編」という本が手もとにある。
本荘市は、私が住む由利町の隣の市だが、生活の慣習等は共通するものがある。
その本の中の「婚姻習俗」の項に披露宴の盃事のことが記述されている。地元の人でないとわかりにくい記述もあるが、本文のまま転載する。
ホンパ
披露宴のことを「ホンパ」といい、席は三々九度の盃事と同様に床の間に向かって婿方が左側、嫁方が右側に座り、ナカド(仲人)を中心に婿方と嫁方の本家が座る場合と、嫁とエノコが座る場合がある。婿と嫁の兄弟は叔父叔母より前に座り、婿方の両親の席は設けない。たとえ、あっても一番後方の真中に御膳を設けたが、座ることはなく接待に明け暮れした。また婿の席もなく、裏方で主に酒を燗するなどの手伝いをしていた。
ホンパは奉行(ザヘフリ)の采配によって次のような順序で盃事が行われたが、地域やその家の格式と習慣によって、途中省略したり順序が逆になったりすることもあった。
最初の盃事を「神明様の目」(旧本荘藩領内では「一献の目」、松ケ崎地域では「御膳の目」ともいった)といい、最初に奉行が、あるいは婿方の主人が飲み、その盃は婿方の上席から末席まで回された。次の盃事を「取持ちの目」(「二献の目」)といい、奉行と取持ちがそれぞれ酒を飲み、二つの盃は婿方と嫁方の上席から末席まで回された。三回目の盃事を「オモタセ」といい、嫁受取りの儀式を行った。ナカドと嫁の父が並んで座り、それに婿の両親が対座し、最初に婿の両親が飲み、その盃をナカドと嫁の父に手渡し、酒を飲んで貰う。この時、「高砂仲人」と「弓八幡」がうたわれた。盃は再び婿の両親に返され、この時「老い生(お)だに」がうたわれるが、注がれた酒は謡が終わるまでに全て飲み干す。盃が下げられると、婿方の主人がナカドへお金、反物、スルメなどを謝礼として渡す。これら儀式が終わると三味(三味線)弾きや唄・踊の芸事が繰出され宴が賑やかになっていく。この「オモタセ」の前に、新しい盃を持ってきて「三献の目」「四献の目」を行って、座を盛り上げてから五回目の盃事に「オモタセ」を行うこともあったが、新しい盃が婿方の上席から末席まで回され、この盃に嫁が順序に酌をして歩くという内容のものであった。
四回目の盃事を「主人の目」といい、宴が盛り上がって来た頃を見計らい、婿方の主人が後方でお礼の挨拶をした後、盃で酒を飲み、その盃を上席へ回したが、酒を飲んでいる途中、唄が入ると唄の終わるまで盃を口から離せないなどの余興があり、また宴が高じて来ると必ずしも順序よく盃が回されるとは限らなかった。宴は夜を通して行われることもあり、このことから「夜通しブルメ」とも称された。「明け方近くに夜明けの祝と称して、近隣に賑やかな祝宴の印象を持たせるため、三味線や太鼓を鳴らすこともあった」(内越)。途中疲れて座敷や茶の間で眠る者もいたが、夜を通して飲ませたのは、来客の布団がないためでもあったという。
最後の盃事を「ばばの目」といって最初に婿の祖母が盃で酒を飲み、その盃を来客に回す儀式であった。この盃事は宴の終わりを意味し、「ばばの目」の盃が回ってくると来客は次第に席を立って行った。
以上が「本荘市史」による披露宴の盃事である。細かいやり方については違う部分もあるが、私たちの部落の「おまわり」は、この盃事が原型になっているのは間違いないようだ。
私たちの飲み会での「おまわり」は、とにかくみんな酔っぱらうように大量に飲ませてしまおうという意図があるわけだが、原型となっている婚礼での盃事は、酔うためだけではない儀式的な意味を持っているようだ。この盃事の進め方を見ると、私の地域では、酒が儀式の中で大きな役割を占めていたこともわかる。
私の地域では「飲めません」などということは通用せず(^^;) 酒を飲むことが人との関わりで大きな位置を占めていたようだ。(繰り返しになるが、それだけ無口で純朴な人が多いのかもしれない)
私が所属する地域団体では、それらの盃事の意味は消えてしまって、とにかく順番に飲むという形式だけが残ってしまったようだし、私の地域の結婚披露宴でも、今どき、上記のようなやり方をすることはない(ほとんど会場のホテルで推奨する全国共通な形式が多い)のだが、形式はともかく、精神のようなものは残しておきたい習慣である。
私自身を振り返ってみると、24歳という若い時に結婚した私の披露宴は、神社の座敷を使うという、やや古い形式のものであった。前述のような盃事を全部行ったわけではないが、当時、まだ存命であった私の祖母が、身体が不自由で披露宴の座敷に出て「ばばの目」をやることはできなかったが、控えの間から披露宴の様子を嬉しそうに見ていたのが、今でも印象に残っている。その祖母も他界して20年近くになろうとしている。
<00.05.17>
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