ほめ役物言い役


 うんちくNo.145「授業研究会と呼ばないで」でも触れているが、学校では授業研究会というものを行っている。

 このうんちくでも書いたように、教師の指導技術等を云々するだけの表面的な研究にとどまらず、普段の授業では取り組めない実験的な試みを行うような積極的な研究をしようというのが私の持論なのだが、それはさておき、研究授業の後にはその授業について話し合う「研究会」が行われる。



 この話し合いを深まったものにすることが大切なのだが、これもうっかりすると表面的なもので終わってしまうことがある。

 表面的で終わってしまう理由のひとつに「遠慮してしまって思ったことが言えない」ということがあるのではないだろうか。



 例えば、授業をしたのが中堅教師やベテラン教師だった場合、若い教師は何か心に思うことがあっても、「こんなことを言ったら生意気だと思われてしまうのでは‥‥」などと発言を控えてしまうことがあるかもしれない。あるいは複数の学校の教師が集まる研究会などでは「あまり面識のない先生の授業に対して厳しい発言をすると、不愉快に感じられるのでは‥‥」と自粛してしまうこともあるのではないか。

 あえて場の空気をこわばらせるような発言をしなくても、「人の振り見て我が振り直せ」ということで、今後の自分の学習指導に生かせばよいと「だんまり」を決め込んでしまう方法もあるかもしれないが、本人はそれでよくても研究会の深まりはなくなってしまう。



 自分の考えを思い切って出すことで、他の人たちに何か示唆を与えることもできるかもしれないし、場合によっては自分の考えの間違いや未熟さを指摘してもらえるかもしれない。

 多くの人がそれぞれの考えを出し合うことで研究授業の意義は深まるのである。



 その研究授業が、どちらかというと「失敗」であった場合は、授業者自身もそのことを自覚しているわけだから、あまり突っ込まなくてもよいような気がする。

 授業のあり方を検討する場合、「1.授業の目標そのもの」「2.目標達成のための手法」「3.その手法を支えるためもの(教具等の準備、発問や指示の出し方、学級経営や学習訓練等)」の3段階に目を向けるとよいのだが、失敗した授業の場合、どの段階に問題があるのかを明確にし、改善策を考えればよい。

 授業者自身がこれを自覚しているのだから、参会者みんなで「ここのところはこんなふうにするとよいのではないだろうか」という考えを出し合えばよいので、こういう話し合いだとだれでもあまり遠慮なく発言できるだろう。



 問題は、授業者が「成功した」と思っている場合である。

 一見、何の落ち度もなく、スムーズに授業が行われた場合など、授業者本人も「今日はかなりうまくいきました」という反省をしたりし、参観者も「さすがに○○先生と感じられるような素晴らしい授業で、大変に勉強になりました」とほめるばかりということがあったりする。

 実はこういう場合こそ気をつけなければならないのである。「手法も成功した」「その手法を支えるための手だても万全であった」としても、もしかすると「目標そのもの」に問題があったかもしれない。そのことに授業者も参会者のほとんども気づいていないとき、もしかしたら新鮮な感覚を持った若い教師が「何か違うような気がする」という感じを持っているかもしれない。そしてその感じが実は正しかったりすることもあるのだ。

 こういうときに、「計画どおりに進んだ素晴らしい授業でしたが、この授業の中で児童の成長は何なのかを考えると若干の疑問を抱きます」などと発言できればよいのだが、実際にはなかなか言えるものではない(^^;)



 企業のように利潤を追求する場合、結論をあいまいにしておくと死活問題につながるので、会議の話し合いはシビアなものだろうが、授業研究会の場合はそこまで行かないことが多いように思う。私が若い頃は先輩の先生方が「若いヤツはとにかく発言するのが役目」と言ってくれたこともあり、世間知らずの私はとにかく一番最初に発言するように心がけてきたのだが(^^;)この頃は謙虚さを身に付けた若い人が多くなったのか、研究会も静かに終わってしまう傾向があるようだ。(私の周辺だけかもしれないが)



 この「静かな研究会」を打破するよい方法がある。



 7年ほど前、私は当時の文部省が行った中央研修というのを受けたことがある。この研修は全国の中堅教師が集まって、5週間、生活をともにしながら講義や演習を受けるものであった。

 全く面識もない人間が集まって研修をするのだから、それなりの遠慮もある。あるテーマでだれかが発表を行い、それについて話し合うという活動の場合、ぐずぐず遠慮をしていると短時間で効率のよい話し合いはできない。

 そのとき行われたのが「ほめ役」「物言い役」の設定という方法であった。



 20人ほどのグループで研修を行うのだが、その中で「レポート発表役(2名程度)」「司会者」「記録者」が指定される。

 ここまでは普通の研究会と同じなのだが、この研修ではこの他に「ほめ役」と「物言い役」という担当がそれぞれ2名程度指定されるのである。

 これらの役は、その名の通り、「ほめ役」は発表のよい所をほめる、「物言い役」は発表に対して問題点や改善点を述べるというものである。



 ほとんど面識のない人たちどうしの集まりだから、レポートの発表についてあれこれと注文をつける「物言い役」は難しい。しかし役割であるから何かは言わなければならないので、一生懸命物言いのネタを探すことになる。「物言い役」と別に「ほめ役」がいるので物言いに徹すればよい。言われる側も「この人は物言い役として発言しているのだから、自分に悪意を持っているわけではない」と受け取ってくれるので、少々厳しいことを言うにも気が楽である。

 こういった理由からか、この研修の話し合いは効率的で中身の濃いものになった。「物言い役」や「ほめ役」の発言がきっかけとなって、一般の参会者もどんどん発言することができた。



 道徳の時間の手法として、「役割演技」(あるいは「ロールプレイング」とも言われる)というものがある。

 道徳の時間に扱った資料(物語等)の登場人物になりきって寸劇のようなことを行うという手法である。もともとは心理学のカウンセリングの手法として行われたもののようだ。

 道徳の時間には、児童生徒が本音を語り合うのが理想なのだが、人間は成長するほど「素の自分」をさらけ出すことに抵抗を感じるようになる。道徳の場合、ねらいとする価値観(例えば「思慮・分別」など)について、「私は日常はこういう行動をしています。そしてこんなふうに考えています」などという話し合いをするのは難しい。場合によっては自分の恥をさらけ出すことにもなりかねないからだ。

 そこで、現実の自分の生活とはちょっと状況の違う別の話(物語等)を扱うことで、虚構の世界の中で(実際には)本音を出させるようにするというのが、道徳の時間によく行われている。

 その場合も、「私は登場人物の○○がとった行動についてこう思います」という言わせ方をすると、「素の自分」の要素が大きいので抵抗がある。「登場人物の○○は、このとき、こんなふうに思っていたと思います」という言わせ方をするほうが抵抗が少なくなり、結果的には発言者の本音に近いものが引き出せる。

 さらに、発言者の「私は」の部分を消して、登場人物そのものになって「わしは、こうなのじゃ」というような言い方をさせると、実は発言者の本音が吐露されるわけであるし、また役割を演じることで、実体験ではなかった体験や感覚を味わうことにもなるので、この「役割演技」の効果は大きい。



 研究会の話し合いの中で「役割演技」のような効果をもたらすのが、「ほめ役・物言い役」のやり方だと思う。

 一般の校内研究会などの場合でも取り入れてみたらどうだろうか。「うちの学校はそのようなやり方をしなくても、研究会は十分に活発です」という場合は不要だろうが、「どうも研究会の話し合いが低調で困る‥‥」という場合には効果があると思う。

 「遠慮しているのか、若い人の発言が少ない」とか「人当たりのよい先生が多いせいか(実はそれも教師には必要なことなのだが)、お互いほめ合うだけの研究会になりがち」とかいう学校でも、「物言い役」をきちんと設定することで、よい雰囲気の中で本音を出し合うような話し合いが可能になると思うし、若い教師の成長を促すことにもなると思う。



 ただ、この「物言い役」を設定する場合には、1人ではなく2人にする配慮が必要である。話しやすくなるし、視点も広がる。また、同時に「ほめ役」も忘れずに設定することも大事である。これは参加者の人数が少ない場合は1人でもかまわないだろう。

<03.11.25>

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