授業研究会と呼ばないで
学校には「授業研究会」というものがある。
校内だけで行うのが「校内授業研究会」、他の学校の教師にも見てもらうのが「公開授業研究会」である。
学校によっても違うと思うが、1人の教師が、年に1・2回、こういう授業を行うのが普通である。

私は、どうも、この「授業研究会」という呼び方が好きでない。
では、どう呼べばいいのかと言われたら、私は「研究授業」でよいと考える。
「なんだ、同じじゃないか!」という方もあるだろう。実際、それぞれの授業については「研究授業」と呼んでいることが多い。その授業についての話し合いの会を「授業研究会」と呼んだり、授業と話し合いを総括して「授業研究会」と呼んでいることが多いようだ。
でも、「研究授業をやる」というのと、「授業研究会をやる」というのでは、かなりニュアンスが違ってくるように思う。
研究授業というのは特殊な授業である。
多くの人に見てもらうから特殊なのではなく、日常の授業ではやらないことをやるから特殊なのだ。
例えば、ある教師が、「話し合い活動を充実させるためには子供たちをリラックスさせることが必要だ。そのためには椅子に座った話し合いではなく床に寝そべって話し合ったら良いのではないか」と考えたとする。
しかし、これをすぐに実践にうつすことは良くない。本当にそれが効果的かどうかを検証することが必要だ。さらに1人の教師の学級だけがそれを行うのではなく、効果があることならば学年や学校として足並みをそろえて実践するほうがよい。(進級して新しく学級編成したときに、それに慣れている子と、そうでない子との差が大きいようではうまくない)
まあ全校で一斉に「寝そべり話し合い」をやらないにしても、その効果について、考えついた教師の独りよがりでなく、複数の目で分析してみるということは必要だろう。
本来の研究授業というのは、そのような実験的な目的で行うべきだと思う。
ところが授業研究会という名称で行われているものは、別の意味で行われているような気がする。
教師の授業の構想の立て方とか技術とかを話し合う傾向が強いような感じを受ける。
したがって、そこで行われる授業は、考えられる全ての条件を満足するような総花的授業になりがちである。
「板書(黒板に書いたもの)の構成も素晴らしい」
「発問の内容もタイミングも良かった」
「視聴覚機器も効果的に使われている」
「児童の活動の評価の方法も工夫されている」
などという評価が授業後の話し合いで出てくるのをよく見かけるが、これは教師の授業そのものについての評価であり、研究授業という場で行った試みについての話し合いにはならない。
経験の浅い教師の指導技術を鍛えるためにやる場合や、反対にベテラン教師が若い教師に指導のテクニックを教える場合などはこれでよいのだが、ほとんどの授業研究会はそういう目的で行われているのではないはずである。
「できれば研究授業はやりたくない」という教師も多い。これは「授業が(あるいは自分が)評価される」というかたちの「授業研究会」の色が濃いからであろう。「自分を鍛えるために頑張る」という意欲的な教師もいるが、これも、もとになっている「授業研究会」という発想は同じような気がする。
「研究授業」は、もっと面白いものであるはずだ。自分で「こうやったら、いいんじゃないか」と考えついたものを試す場だとすれば、やる前からわくわくするはずだし、自分から進んでやってみようという気にもなるはずだ。
一般的な授業研究会でも、研究授業は学校の研究テーマおよびその仮説等に基づいて行われる。だから、研究テーマを検証するためにわくわくしながらやってもいいはずだが、実際にそうではないということは、研究テーマ自体が教師一人一人のものになっていないからだろう。
指導案の文章の語尾表現がどうの、年間における評価計画がどうのと、細かいことに数多くこだわるから、本当に試したいものもそれらに埋もれて見えなくなってしまう。
なにも45分の授業時間(中学校では50分)の全部を息も抜かずに研究する必要はないと思う。本当に大事な部分だけを研究すればよいのだから、授業の最初の10分間だけを見てもらう研究授業があってもよいだろう。
昔、自主的な研究サークル等の活動が盛んだった頃は、教師が自分から進んで研究会を企画し、人を集めて、授業を見てもらったという。
実験的な試みを数多く考え出し、それを実践してみることを楽しむようなサムライは、もう出てこないのだろうか。
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