自分以外はバカか師か


 ネットサーフィンをしていたら、平成15年(2003)7月9日付けの朝日新聞夕刊に、作家の吉岡忍氏が「『自分以外はバカ』の時代」というエッセーを書いたということに巡り会った。

 残念ながら私はその原文を読む機会がなかったのだが、検索中に見つけた「高成田享のニュースDrag」のこのページや、「the-more-the-merrier!」というサイトのこのページ「蒼穹の回廊書評」というサイトのこのページ等で、そのエッセーの概要を知ることができた。



 いちいち上記のリンク先を参照するのも面倒かと思うし、リンク先が消失することもあるので、これらのページから「『自分以外はバカ』の時代」の文章と思われる部分を引用させていただく。

 それぞれ部分的な抜粋なので、順序がおかしくなっているかもしれないが‥‥。



 21世紀の初頭、不景気風の吹きすさぶこの国で個々ばらばらに暮らしはじめた人々の声に耳を傾けてみればよい。取引先や同僚のものわかりが悪い、とけなすビジネスマンの言葉。友だちや先輩後輩の失敗をあげつらう高校生たちのやりとり。ファミレスの窓際のテーブルに陣取って、幼稚園や学校をあしざまに言いつのる母親同士の会話。相手の言い分をこき下ろすだけのテレビの論客や政治家たち……

 はしたない言い方をすれば、どれもこれもが「自分以外はみんなバカ」と言っている。自分だけがよくわかっていて、その他大勢は無知で愚かで、だから世の中うまくいかないのだ、と言わんばかりの態度がむんむんしている。私にはそう感じられる。上は行政の長から、下は大衆に至るまで、そこに内在する歴史や矛盾を切り捨て、自己の責任や葛藤を忘れているのだ。この現実はやっかいだ。自分以外はみんなバカなのだから、私たちはだれかに同情したり共感することもなく、まして褒めることもしない。こちらをバカだと思っている他人は他人で、私のことを心配したり、励ましてくれることもない。つまり私たちは、横にいる他者を内側から理解したり、つながっていく契機を持たないまま日々を送りはじめた―それがこの十余年間に起きた、もっとも重苦しい事態ではないだろうか。



 うーん、なるほどと思わされる文章である。まるで自分のことを言われているようで、胸にぐさっとくる(^^;)

 私も1年前、うんちく講座No375「謙虚に馬鹿になる」で、これと似たようなことを書き、思い上がりや思いこみによって、傲慢になったり小賢しくなったりすると、他からは何も学んで得ることができなくなってしまうと述べたのだが、うっかりするとそれを忘れてしまい、生意気なことに一国の宰相をも「自分よりバカ」などと思ってしまったりする‥‥。(もちろん、宰相は私のような浅学非才と比べたらあらゆる面で勝る知識・能力・人格を持っているはずである)



 吉岡氏は、「この国の低迷は始まったばかりで、今後いっそう深く沈み込んでいくだろう」という暗鬱な予感を語っているのだが、その「亡国の原因」が「自分以外はバカ」という考え方だとしたら、私なども「亡国の徒」になりかねない‥‥。気をつけよう(^^;)



 「自分以外はバカ」というのと全く逆の言葉もある。

 「宮本武蔵」で有名な作家、吉川英治氏が、好んで色紙に書いたのが「我以外皆我師」という言葉なのだそうだ。(吉川氏の作中の宮本武蔵の言葉らしい。「我以外者是皆我師也」などという表現もあるようだが‥‥)

 この言葉はずっと前から聞いたことがあるので、仏教の言葉かと思っていたが、今回、調べてみたら宮本武蔵の言葉(あるいは小説「宮本武蔵」の作者である吉川氏の言葉)のようだ。ただ、検索してみたら、この言葉をとりあげて法話的に扱っているお寺のホームページが多かったので、仏教的にも意味のある言葉かもしれない。



 この言葉を扱ったお寺のホームページ等には次のような文章があった。



 私達は皆、この世に生を受けるときには、言葉も何も知らない純粋な心で生まれてきます。そして、親から、友達から、学校の先生から、自然から、いろいろなことを吸収し学んで成長してきます。ところが、いつのまにか「学ぶ心」を忘れ、人の未熟さが気にかかるようになってはいないでしょうか。



 お釈迦さまのお弟子に耆婆(ぎば)という名医がおりました。彼がまだ若いころ師匠から「薬にならない草を採集してきなさい」と命じられ、幾日も野山を駆け巡って探しました。しかし薬にならない草はとうとう一本も見つからなかったのです。

 この世に「役に立たないもの」「薬にならないもの」は一つとしてないと知らせしめるのが「智慧」というものです。

 吉川英治という著名な作家がおられました。吉川英治氏が色紙などに好んで書かれた字句に「我以外者皆我師也」つまり私以外すべてのものは私のよき師匠でありよき導き手であるということです。氏はまさにすべてを拝んで行く人生を歩まれたのです。

 「善智識(ぜんちしき)にあうこと難し」とお聖教に仰せられます。この世に「善知識」といわれる「導き手」がおられないということはなくて、私の頭が高くて見失っているのです。ひとたび頭がさがりますといたるところに「善知識」がいてくださるのです。

 身の周りから学ぶどころか、身の周りを常に憎まねばならないとしたら、こんな悲しいことはありません。今日の社会はまさに他を憎み、他を排除し、他を傷つける不幸が蔓延しています。



 これもまさに「うーん、なるほど」である。

 「我以外皆我師」という言葉の作者が吉川英治氏であったにしろ宮本武蔵であったにしろ、どちらも卓越した能力を持った人間であったはずである。またどちらも(特に宮本武蔵は)他者を負かすことによって生きてきた人間であったと思う。

 最初から「自分以外のものを全て師と仰いで学ぶ」という態度を持ち得たとは思われない。むしろ「自分以外はバカ」という気持ちを持ったのではなかろうか。ところが「自分以外はバカ」という気持ちを持つことによって、自分の向上心が失われ、自分自体が「バカ」になってしまうということに気づき、「我以外皆我師」という悟りに達したのではないかと思う。

 凡人である私も、この言葉に学ばなければならない‥‥‥。



 「自分以外はみんなバカで、自分は偉くて賢い」という傲慢さから全く離れたところで、高邁な悟りを得たという例もあるようだ。



 今回のうんちくは仏教の話が多くなってしまうのだが(私は特に熱心な仏教徒ではなく、お盆に先祖の墓を拝む程度である ^^;)釈迦の弟子の周利槃特(しゅりはんどく)のお話である。



 周利槃特は釈迦の弟子の中でも飛び抜けて頭の悪い男であった。周利槃特は自分の名前さえしばしば忘れるほど記憶力が悪かったので、背中に名札をはっておいたくらいであった(^^;)

 釈迦から教えをいただいても翌日になると全く覚えていないので同じことを教えてもらう。それを数ヶ月繰り返しても覚えられないという状態であった。

 自分の愚かさに愛想が尽きた周利槃特は、釈迦に、「世尊よ、私はどうしてこんなに愚かなのでしょうか。自分ながらあきれるくらいです。私はとても仏弟子たることはできません」と破門を願い出た。

 釈迦は周利槃特に「お前は愚者ではない。本当の愚者は自分が愚者であることを知らないものである。お前は己を知っている。だから真の愚者ではない」と優しく言い、「この者には、教えを言葉で伝えるべきではない」と考え、周利槃特に一本の箒(ほうき)を手渡した。そして、「塵を払い、垢を除かん」という言葉を与えた。

 周利槃特は釈迦の教えの通り、その言葉を唱えながら何十年もの間、掃除だけを続けた。

 その間、仏典を紐解くことはなかったのだが、「塵を払い、垢を除く」掃除を行ううちに、周利槃特は自分の心の塵、心の垢をすっかり除くことができて悟りの境地をひらき、ついに釈迦の弟子の最高位である聖者の位(阿羅漢)に達することができた。

 釈迦は多くの弟子を前にしてこう語った。

 「悟りを開くということはたくさん覚えることではない。たとえわずかなことでも徹底しさえすればそれでよいのである。見よ。周利槃特は箒で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか」



 周利槃特は愚者であった。愚者を自覚し、愚者に徹したがゆえに半端な賢者が達し得ない境地に到達した。

 悲しいかな、今の世には、「我こそが賢者である。我以外は皆愚者である」と考える愚者が満ちている。(私もその一人である)

 頭を垂れて、吉川英治氏や周利槃特に学びたいものである。(と、こういう文章を書くこと自体が「自分以外はバカ」と思っているということなのではないかと指摘されれば、それもまた真なのではあるが‥‥ ^^;)
<03.07.18>



 その後、朝日新聞に掲載された「『自分以外はバカ』の時代」の原文を、このホームページの読者の方から送っていただいた。一時期、その全文をタイプし掲載してリンクしていたのだが、著作権の問題もあり、吉岡氏に連絡をとることができなかったため、現在は掲載していない。

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