謙虚に馬鹿になる
「春の海」の作曲家・箏曲演奏家の宮城道雄さんの言葉に「修行中は馬鹿にならなくてはいけません」というのがあるそうだ。
仏教の世界でも同じような言葉があるようだから、原典はそれなのかもしれない。
ものを学ぶときは小賢しく知ったかぶりなどしないで、無心にならなければいけないという意味だろうと思う。
そこで我が身を振り返ってみると、馬鹿になれない自分がいて、反省してしまう。
子供の頃には、何を聞いても何を読んでも素直に受け入れることができたと思うし、それが自分の身になったように思う。
しかし、この頃では、なかなか読んだり聞いたりしたことが自分の中に入ってこない。年齢のせいで記憶力が衰えたということもあろうが(^^;)もっと大きな理由は、物事を批判的に見てしまうという私の態度にあるような気がする。
この頃、お役所から出た文書などには、「なんじゃこれは」というものもあって反発を感じることもある。こういうことが続くと、お役所から来た文書は最初から批判的に見てしまうという傾向になりかねない。事実、私もそういう傾向になってしまっている。
しかし、全てのそういった文書などが完全に間違ったことを書いているというわけではない。むしろ9割以上は正しく、「なんじゃこれは」と思うような部分は全体の1割もないのが事実である。
(私の感覚で)正しいと思う9割の部分は、素直に読めば多いに共感するものであり、またそこから自分にないものを学ぶこともできる。
これを最初から「こんなものを読んでもしょうがない」と否定してしまえば、学ぶものは何もなくなってしまう。自分が気に入ったものしか読まないようになってしまっては進歩も発展もなくなってしまうだろう。
乾いた地面に雨はしみ込むが、その地面にビニールシートをかぶせてしまえば、地面は水を得ることができなくなる。
周辺を見渡すと、有能な人なのに、お役所やお偉方に最初から反感を持っていて、「こんなのは無理なことを言っているだけですよね」とか「そう言うなら自分でやって見せてほしいものですよね」などと言って、素直に読んだり聞いたりできない例がある。(私もそれに近いかもしれない)
しかし、その態度を貫いてしまうなら、その人にとっての修行はもう終わってしまうし、もう成長は期待できない。
気に入らない人というのは誰にもいると思う。しかし気に入らない人が言うことが全て間違いかというとそうではないだろう。その人の言葉にも大いに学ぶべきものがあるはずだ。
気に入らない人の言うことは一切聞かないというのでは、世の中から得られるものの大半を放棄してしまうことになる。物事を批判的に見るのも大事なことではあるが、「批判的に見る」というのは、読んだり聞いたりすることを最初から否定してしまうのではなく、一度は「素直に馬鹿になって」読んだり聞いたりして理解をし、その上に立って批判するというのが本来の姿だと思う。
中途半端に小賢しくならず、謙虚に「馬鹿になって」、いろいろなものを素直に受け入れて学んでいこうと思う今日この頃である。
えっ、お前は最初からバカだって‥‥。失礼いたしました(^^;)
<02.06.30>
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