成績と呼べば
新学習指導要領が実施されてから、「学力低下」の懸念が様々なところで語られている。文部科学省が平成14年1月17日に出した「学びのすすめ」の中でも学力低下の懸念についてと、それに応じた学力向上対策についてが述べられている。
また、私の住む地域でも「学力向上」が地域の教育の最重点課題とされ、学力向上推進委員会なるものが各地で作られている。
この「学力」という言葉がくせものである。
何をさして「学力」と呼んでいるのかが分かりにくく、教育関係者の混乱を招く原因となっている。
本来、新しい学習指導要領が目指していたのは、次のようなものである。
完全学校週5日制の下、各学校が「ゆとり」の中で「特色ある教育」を展開し、児童に豊かな人間性や自ら学び自ら考える力などの[生きる力]の育成を図ることを基本的なねらいとする。
このことについては、文部科学省のこのページに詳述されているので、ご参照いただきたい。
これが広い意味での「学力」と呼べるだろう。
新学習指導要領が目指す教育のひとつの目玉として生まれたのが「総合的な学習の時間」である。これについては、うんちく講座No.238「総合的な学習の時間?に答える」で触れているが、要は「世の中ときちんと向かい合い、周りの人々と共存していく人間を育てる」のがねらいである。
新しい教育が目指すものを簡潔にまとめると、
○ 時代の変化に対応して、新しい知識や技能を自ら得ることができる力(生涯学習力)
○ 社会の中で、他者を思いやり共存していける態度(社会性)
の2つになるのではないだろうか。要するに「人間性」を育てることなのである。(教育基本法第1条にも教育の目的として「人格の完成」が謳われている)
ところが、一般に言われている「学力低下論」は、人間性のレベルでは語られていない。
いわゆるテストの成績のことである。
「日本の児童生徒の算数・数学の力は世界で何番目」とか、「我が地域の平均点は、全国平均を3点上回っている」というような視点で語られている。または、「小数のかけ算の計算力が10年前と比較して落ちてきている」というような言い方もされる。
これは、前述した「人間性としての学力」と同じ視点で語ることはできない。
私としては、どちらの視点も大切なことだと考える。
人間性を育てることは、時代がどう変わろうとも教育の根本になることだと思う。
私は「教育は感化である」と考えている。松下村塾の吉田松陰や、札幌農学校のクラーク博士のように歴史に残る人物を輩出するとはいかないにしても、大人になった教え子たちが「今日の自分があるのは先生の影響が大きい」と思ってくれるような教師でありたいものである。(自分としては全く自信がないが‥‥)
教え子が卒業後何十年たっても年賀状をくれるとか、結婚披露宴に恩師として招待してくれるとかいうことは、ある意味で教師の教育への評価なのではないだろうか。まあ、それだけで判断できるのではないのだが、教職を何十年やっても、年賀状もほとんどこないとか、結婚披露宴に一度も呼ばれたことがないとなると、当時の指導がどうだったのか心配になってくる。
しかし、教師は教室で人生論を語るのが仕事ではない。
児童生徒の人間性を育てるのは、教師の子供への接し方によるものである。これは、新しい学習指導要領の趣旨をきちんと理解し、「総合的な学習の時間」などの指導を正しいかたちで行えば、いっそう効果が上がるものだと思う。
ただ、教師の日々の指導のほとんどは、教科の学習指導であり、そこでは、知識や技能の習得が主な目標となる。これがちゃんと行えなければ、給料をもらう仕事としてはなりたたない。親御さんから大切な子供をあずかって指導をしている我々が「子供に教えた勉強の内容をちゃんと定着させられなかった」というのであれば、子供にも保護者にも申し訳がない。
昔の教育と変わったのは、昔は「今、教えていることをきちんと身につければ、一生それが役に立つから、しっかり覚えなさい」というものであったのに対して、今は「今、勉強していることは、もしかしたら将来、役立たずな古いものになるかもしれない。でも、今、勉強しているように、自分の頭で考えるやり方をしっかり身につければ、大人になってから出会ういろいろな新しいことにも、同じやり方で対応できるから、頭の使い方を身につけるんだよ」という立場になったことである。
ただ覚えさせればよいという指導から、他の学習内容にも転移するような力を育てる指導に変わったのだから、指導方法にも工夫と改善が必要とされる。そのためには「詰め込み式」の指導よりも時間がかかる。それで「学習内容の精選と削減」が行われたのが、今回の教育改革である。
ただ、教育改革の効果が検証されるには時間がかかる。「子供時代に習得した『学び方』が大人になっても生きる」というのがねらいなのだから、その成果は今の子供たちが大人になってみないとわからない。
しかし、「今教えている学習内容を使って、将来も生きる力を育てる」というときに、「将来も生きる力を育てる」ために、「今教えてる学習内容」がちゃんと定着していないというのでは、どうしようもない。
「将来も生きる力が身に付いているかどうか」はわからないにしても、とりあえずは「今教えている学習内容」が定着していなければならない。
「今日(あるいは今年)教えた学習内容がちゃんと定着しているか」という評価が「成績」である。
最初に述べた「人間性」が育っているかどうかは、数十年もたたないと評価ができないが、成績は即時に評価ができるはずである。この「成績」が下がっているようでは、新しい教育はやめたほうがよいだろう。
巷で言われる「学力低下論」は、成績の低下を心配するものである。
子供の幸せのための教育であるから、成績低下はどんな理由があろうとも許されるものではない。教師は、指導している全ての子供の成績を向上させるのが本務である。
学習の定着度を評価するテストは適宜行うべきである。その結果が良くなかったとすれば、指導法に改善を加えたり、補充の指導をしたりしなければならない。ただ、そのテストの成績によって、すぐに学力が上がったとか下がったとか言うのは近視眼的に思える。
企業では経営の改善を図るために、一定期間に到達すべき目標を決め、それに向けて努力をする。例えば「今年度上半期の販売額を前年度比で10%向上させる」などのようなものである。
これを教育に例えれば、「企業力」が「学力」にあたり、「販売額」が「成績」にあたるだろう。社長が「企業力を向上させよう!」とあいまいな命令を出すだけでは経営の改善は図れない。「販売額を増大させよう!」という具体的な目標が必要である。
教育現場でも、「学力は育てるもの」「成績は向上させるもの」と明確に意識した上で日々の教育活動を行ったほうがよいだろう。
もう少し具体的にするならば、「学力」という言葉はできるだけ使わず、「人間性を育てる」ことを教育活動の長期目標とし、これまで「学力向上推進委員会」などと呼んでいたものを「成績向上推進委員会」のように改称したほうがよい。これだけでも現在の教育現場での混乱はかなり解消するのではないだろうか(^^;)
念押しのようになるが、新しい教育がめざすものは、「知識から知恵へ」ということである。(「知識より知恵」ではない)
今やっている学習内容についての知識理解・技能だけでなく、将来も生きてはたらく学び方を育てなければならなくなっただけ、学校教育は難しくなった。
「学力を育てる」という中身には、前述したように「生涯学習力」や「社会性」といった「人間性」を育てることが含まれる。そこをきちんと押さえないまま、テストの点数の上下だけを学力の低下を云々するのは妥当ではない。
教育現場ではよく「見える学力」「見えない学力」などという表現が使われるが、これはうまい表現ではない。かえって本質が見えなくなってしまう(^^;)
私としては、定義があいまいな「学力」という言葉はできるだけ使わず、「人間性を育てる」「成績を向上させる」というはっきりした表現を使うことを提唱したい。
しつこいようだが、どんな学習指導を行ったとしても、成績が低下するのが容認されないことはもちろんである。
<03.05.19>
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