2002(平成14)年から完全実施される新「小学校学習指導要領」(中学校も同時)。それに向けて2000(平成12)年からは「移行措置」が実施されるが、学校現場でもその具体化のためにどのような教育課程を編成するかということで話し合いが活発になってきた。
その中でも特に話題になるのが「総合的な学習の時間」についてである。
今回の学習指導要領の改訂で、新しく出てきた時間であり、教科にも道徳にも特別活動にも属さない、全く新しい考え方の時間である。
「総合的な学習の時間」の具体的な例がほとんど示されず、「各学校が創意工夫を生かし」という形で出されたことや、各教科等の授業時数が35(1年間の授業週数)で割り切れないものが出てきたりしたため、「どうやって時間割を組むの」とか「うちの学校では何をやればいいの?」ということが当面の問題となり、どこでも頭を悩ましているようである。
そのための校内での話し合いや、職員の共通理解をどう進めるかということが問題になっている。
ここでは、私なりに、まずはここから始めたらという提言をしてみたい。
なお、この文章は、先日拝聴した、児島邦宏先生(東京学芸大学教授)の講演に大きく影響されている。
どうしてやらなきゃいけないの?
時間割の組み方や授業での具体的な活動を考えるのも大事だが、その前に必要なのが「総合的な学習の時間が生まれてきた理由」についての本質的な理解である。
例えば、PTAなどの際、保護者の方から「総合的な学習の時間って、なぜやらなければいけないのですか?」と聞かれたときに、全校の教師全てが(ベテランも若い人も)わかりやすく話すことができるようでなければいけない。
私なら次のように答えるが、どうだろうか。
今、これをやっておかないと、私やお母さんたちが年とったときに大変なことになるからですよ。
西暦2025年には
児島先生のお話によると、西暦2025年には、日本で労働してお金を稼ぐ人(就労人口)が、国民の半分以下になってしまうそうだ。(現在でも52%程度であるが)
その時点で、国民の4分の1が65歳以上の老人。あと4分の1が、学校卒業前の幼児・児童・生徒・学生と、企業等に就労していない主婦等になるのだという。
働いて稼いでいる人間1人で、自分以外の稼がない人間1人をめんどうみていかなくてはならない社会になる。
そのとき、主な働き手として社会を支えるのが、今、学校で勉強している子供たちなのだ。(私たちはめんどうみてもらう側になる)
そこで、今の子供たちの実態を見るとどうだろう。
これまで「個性尊重」などが優先してきたためか、あるいは塾や部活動などで実社会と触れ合わない生活を送るためか、はたまたテレビゲームなどの一人遊びの世界に育ったためか、「自分さえよければよい」という子供がどんどん育っているではないか。(親にしても「アナタだけが立派になればいいのだから」といった育て方をしているし)
「世のため人のため」などという言葉は死語に近くなってきている。
そうやって育った子供たちが、30代、40代になったときに、年とって働けなくなった私たちのめんどうを見てくれるだろうか。
ましてや、今よりもずっと厳しい環境に置かれる彼らである。収入の半分近くを他の国民の生活の保障のために持っていかれるのだ。
「年寄りや子供や障害者などのめんどうを見ている余裕なんかない。自分の稼いだ金は自分だけで使う」という考え方になってもおかしくはない。
そういう考えの人間が社会の大多数を占めるようになれば、社会保障制度自体も変わってくるだろう。私たちは金もなく保障もない惨めな老後を送らなければならないかもしれない(笑い話ではなく、このままでいくと半分以上の確率で現実になりそうだ)
国家的戦略の「総合的学習の時間」
そこで考えられた国家的戦略(というと言葉は悪いが)が「総合的な学習の時間」なのである。
軍国主義時代に学校が軍国少年育成の場であったように、学校教育は国の意志によって変化する。単なる学問研究の場ではない。
今回、「総合的な学習の時間」登場の背景にあるのは、「子供たちに体験的活動をたくさんさせよう」などという甘いものではなく、将来、日本を滅亡させないようにという重要なプロジェクトなのである。
それが「生きる力」を育てるということであり、「自分さがしの旅」であり、極論すれば子供たちの「心」をよりよい方向に育てていくということなのだ。国家的戦略などというと物騒に聞こえるが、今どうしてもやらなければならない大事で良いことなのである。しかも危機は20年後ほどに迫っているのだから猶予は許されない。
個性片輪教育の反省に立って
独創性の育たない知識偏重教育の反省を受けて、これまでの学校教育では「個性化・自分の確立」といったことに重点を置いてきた。
そちらの方面ばかり重要視されてきたため、「社会の人々と共に生きていく」という側面が軽視されてきたきらいがある。
その反省に立ったのが、今回の改革である。
「個性や自我の確立」と「社会と共に生きていく」という両輪が揃ってこそ、社会的に一人前なのである。
そういう意味では、自分が使える権利は目一杯活用するのに、その権利を守ったり獲得したりする組織的な運動には関わりたくないという若い人たち(年代で限定はできないが、30代なかばから下の人たちには増えてきているように感じる)なども、まだ半人前のように思える。
今の教育に欠けるもの
「社会と共に生きていく」という態度を育てる視点から見ると、現行の学校の教育課程にはそれがない。
児島先生の表現を借りると「現行の教育課程は、『親学問・親芸術』を成立の根拠とする『教科等』からなり、現実世界・生活世界とは一線を画している(生活科を除いて)」ということになる。
世の中を直視し、正面から向かい合い、世の中を見ながら社会的に自立していく学習、社会の変化に主体的に対応する能力を育てる学習がどうしても必要になってきたわけである。
それが「総合的な学習の時間」に他ならない。
コオロギと生活科
少々、余談になるが、本物のコオロギを見たことがない子供が増えている。
図鑑に描かれているコオロギは知っている。だから紙に印刷されたテスト問題で「コオロギの絵を選びなさい」という問題に正答を出すことはできるのだが、生きた本物のコオロギを見たときには、それがコオロギであることを判別できない。
極論ではあるが、そういう子供の実態から始まったのが「生活科」である。
生のコオロギに触れることも、社会の現実に直面することも、私が子供の頃には、日常の中にあった。山野を駆けめぐるのが遊びの普通の姿であったし、貧しい家庭で父親は出稼ぎをし、欲しいものも買ってもらえず我慢しなければいけないというのは、ほとんどの友人がそうだった。
それから30年もたたないうちに世の中は大きく様変わりし、子供たちはそういう体験をしなくなった。
そういう子供たちの実態をふまえて、自然との関わり・人との関わり・現実社会との関わり等を学校教育の中で体験・認識させようとするのが「生活科」と「総合的学習の時間」である。(くどいようだが、昔は学校以外の場で学んでいた内容である)
主に自然との関わりについて学習していくのが生活科であり、総合的な学習の時間は、人や社会との関わりが主な学習内容となる。
地域を学習の場として
現実社会と関わるということになると、自ずから現代社会の課題について考えなければならない。新学習指導要領でも、「総合的な学習の時間」の取り扱いの部分に、「例えば国際理解,情報,環境,福祉・健康など」というように、総合的な学習の時間で取り組むべき課題を提示してある。(現実には、これらに無関心な日本人が増えてきている)
これらの課題について、美辞麗句・大義名分的な理解で終わらないように、学習はあくまでも自分が住む地域を活動の場として行われるのが望ましい。
現実に子供が生きている「生活の場」「現実の世の中」が、地域そのものであるからだ。
地域を深く学習することで、現代社会の様々な問題が具体的に実感でき、そこに生きる自分を考えることで、本当の意味での自我が確立できる。
社会から隔離されたところでの自分の好き勝手な「個性」ではなく、地域との関わりを追究していく中で「社会と関わって自分はどう生きていくか」とということを模索しながらつかむものこそ本当の個性であり、「世のため人のため」になる個性なのである。
学校の創造性を生かす
新学習指導要領では、総合的な学習の時間を進めるにあたって、「学校の特色」とか「創意工夫を生かした」というような留意点がある。
うっかりすると「奇抜なことをやればよい」と勘違いしそうだが、そんなことはない。
これまで述べたように、自分の学校の児童生徒の実態や、地域の実態をきちんと把握して、総合的な学習の時間を計画していくのならば、自然にその学校でしかできないような活動になるという意味なのである。
したがって、先進的に総合的な学習の時間の研究を進めている学校の例を、そのまま真似しようとしても、それは無理な話である。
同時に、「他の学校とは違うことをやろう」と考えたとしても、それが地域や児童生徒の実態からかけ離れたものだとすれば、実行は不可能である。
時間割をどう組むか
小学校の場合、総合的な学習の時間は、3年生以上から実施ということになり、年間の授業時数は、3・4年生で105時間、5・6年生で110時間になる。
週当たりにすると、3・4年生はちょうど週3時間、5・6年生はそれより若干多いことになる。
こういう時間設定に伴って、国・社・算・理・音・図・家・体等の教科の時間も、年間35週という数で割り切れない年間時数になったため、これまでのように、1年間ずっと同じ時間割で授業を進めるということが不可能になった。
多くの学校では、この時間割(教育課程)の編成をどうするかについて悩んでいると思うが、私はそんなに難しいものではないと思っている。
生活科が実施されて10年近くになるが、未だに本来の主旨が実現されていないという意見もある。その大きな原因が「時間割上に週3時間できちんと位置づけたこと」と「教科書を作ったこと」だという説がある。
6歳・7歳という小さな子を指導しなければならないということと、ある程度、全国的に指導の質を揃えなければいけないということから、時間割に位置づけることや教科書を使用することはやむを得ないと思うが、総合的な学習の時間については、それこそ学校の独自性を生かして、柔軟に考えたい。
つまり、総合的な学習の時間については、場合によっては、週に10時間も費やすことがあったり、反対に全くやらない週があってもよいのではないかと思う。
1日おきに1時間ずつといった、こまぎれな時間の取り方では、子供たちに十分な活動をさせられないこともある。
地域に根ざした活動ということになれば、季節的なものに関係することもあるだろう。まる1日を費やして体験しなければならない活動もあるはずだ。
そういうフレキシブルな時間の取り方をしながら、年間授業時数を確保し、他の教科の授業も基準の時数通りに行うということになると、学年単位での時数管理が必要になってくる。
これまでは、主に教務主任が全校的な授業時数を計画するというのが普通であり、学級担任はその計画に従えばよいというかたちであったが、これからは学年主任(単学級の学校の場合は学級担任)に、年間を見通した授業時数のマネージメント能力が必要とされる。教務主任は各学年の計画を調整するという役目になっていくだろう。
総合的な学習の時間の推進と合わせて、今回の学習指導要領改訂のもう1つの大きなポイントである「合科的・関連的な指導」(見落とされがちだが、「5指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」の(4)に「児童の実態等を考慮し,指導の効果を高めるため,合科的・関連的な指導を進めること。」と明記されている)も効果的に生かすべきである。
児童生徒に生きた学力を育てるためには、むしろこちらの方が大事かもしれない。
メインは教科の指導だが
とかく話題になっている「総合的な学習の時間」なので、今回の学習指導要領の改訂の最も大きな部分がそれであるかのような印象を受けるのだが、実はそういうものでもない。
教科に関する部分でも、「複数学年の目標を1つにまとめて示した」とか、「理解が難しい内容は中学校に移行した」とかいうような大きな改訂も多い。
教育学者の中には、「教育課程全体を食事に例えるならば、主食はあくまでも教科であり、道徳や特活、総合的な学習の時間は副食である。しかも副食の中でも主たる位置を占めるのは道徳である」という見方をする人もいる。
私もその見方には共感できる。
学校本来の使命から考えれば、やはり教科の指導を充実して、児童生徒の学力を伸ばしていくべきである。総合的な学習の時間を重視するあまり学力が低下したのでは元も子もない。
しかし、その学力を、自分の「生きる力」として活用できるか否かは、総合的な学習の時間の充実にかかっているようにも思う。
今のままで行っては、高い学力を自分のためだけにしか使えない子供が育つであろう。よりよい心を持ち、自分の力を社会のためにも生かしながら、他の人々と共に生きていける人間を育てるには、総合的な学習の時間を充実していくことが必要である。
その意味では、総合的な学習の時間は、学校の教育課程において、大きな部分は占めないが、大きな意味を持つものである。
理解と共存
キューバ危機のあと、ジョン・F・ケネディ大統領が演説で語ったのが、たしか「理解と共存」ではなかったかと思う。
この言葉こそが、総合的な学習の時間の目指すものであり、21世紀が幸せな時代になるキーワードであると考える。
本当の意味の理解は言葉だけでは成立しない。
どんなに「挨拶が大切ですよ」と言ったところで、実社会の体験がない児童生徒には理解できない。職場体験学習に行った中学生に「世の中で何がいちばん大切だと思った?」と聞いたら、多くの生徒が答えたのが「挨拶と笑顔」だったそうである。
活字やコンピュータのディスプレイからではなく、実際に人間と触れ合って得た「理解」は本物であると思う。そして、その理解が自分の生きる力となっていく。
総合的な学習の時間は、そういうものではないかと思う。
よその学校の指導案や年間指導計画をもらってきたり、時間割の組み方で眉間にしわを寄せたりしなくても、この点だけを学校の全ての教師が理解さえしていれば、総合的な学習の時間を実施していくことは、そんなに難しいことではないと、私は考える。
<99.10.20>