本末を見る


 卒業式でステージに飾る松の盆栽を園芸店から借りた。1回の借用代が5千円。地域の盆栽愛好家の方から借りる方法もあるのだが、借りている間の管理にも気を遣うし、それなりの謝礼もしなくてはならないので、業者から有料で借りるほうが気楽である。



 今回借りた盆栽は、ちょっと見るとかたちもよく立派なのだが、松の葉に生気がない。緑が薄く、葉の一本一本もひょろっとしている。遠目には立派だが近くで見ると貧弱というものであった。

 おそらく、しょっちゅうレンタルしている盆栽なのだろう。貸し出ししている間は水も肥料も与えられないだろうし、温度や日光の管理も不十分だろうから、だんだん生気がなくなってしまったのだろうと思った。



 貸し出しが終わって園芸店に帰ってくれば、葉のかたちなどは修正されるのかもしれないが、植物が生きていくうえで最も基本となる「根っこへのケア」が不十分なために、結果として葉に生気がなくなってしまったように思う。



 「根っこへのケア」は植物を育てる上で文字通り「根本」になるものである。その結果が植物の末端である「葉」に現れてしまう。

 いわゆる「本末」の関係である。

 「末」の「葉」を立派にするためには、「本」の「根」を大事にしなければならないのだが、ときとして私たちは「根(本)」のことを考えずに「葉(末)」だけを見て物事を判断してしまうことがあるように思う。

 これが「本末転倒」ということだと思う。



 このような例は、世の中にたくさんあるように感じる。



 例えば、学校で、こんな校長先生がいたとする。

 自分の学校の児童生徒の挨拶がよくない。そこで「全校あいさつ運動」を進めることを考える。これはとてもよいことである。そこで校長先生が毎朝校門に立って子供たちに朝の挨拶をするようにしたとする。ここで「本末転倒」が起こってしまう。

 校長の本来の職務は「児童生徒への教育・指導」ではない。「校務をつかさどり、所属職員を監督する」ことである。授業が始まるまでの朝の時間、校長は職員室または校長室にいるべきである。出勤してきた職員と話を交わし、相談に応じたり、助言を与えたりするのが校長の仕事である。

 授業が始まってしまえば、教員は忙しく、校長とゆっくり話をする時間はない。朝のうちに校長と話して、報告をしたり指示を仰いだりしなければならない。その時間に校長が校門にいて、職員と話をすることができないというのでは、本務を果たしているとはいえない。

 私の旧友が、ある市の教育委員をやっているのだが、いっしょに飲んだとき、彼が「あきら、校長は児童生徒の教育などにあたらなくていいから、ちゃんと職員に目を配ったほうがいいよ」と言った。頭のよい彼だっただけに、私は「さすがに根本がわかっている」と感心した。

 学校において校長は「根(本)」である。それがしっかりした教育理念をもっていて、適切な学校運営をしていけば、「葉(末)」である児童生徒の姿はよくなり生気が満ちてくる。根と葉をつなぐものが「幹」であり、学校で幹にあたるのが教職員である。校長は葉を豊かに茂らせるためには、幹となる教職員を育て充実させなければならない。幹の充実をないがしろにして葉の姿だけを変えようとするのは、まさに本末転倒である。



 「開かれた学校」と「危機管理」についても同じようなことを感じる。

 この場合は3つの本末転倒が重なっているようにも思う。



 まずは「開かれた学校」についてだが、児童生徒の保護者の立場からみれば、学校イコール学級担任である。学校が開かれているか否かということは、保護者と学級担任が良好なコミュニケーションをとることができるかということによって九割方決まるだろう。

 保護者がいつでも学校に来て授業を参観できる「フリー参観日」の設定や、誰でも校長室に来て意見を述べられるような「校長室開放」などの手だても行われているが、それをやったからといって「開かれた学校」にしたと思っているのではうまくない。本来なら、保護者が学校に行かなくても学校や子供の様子をちゃんと知ることができるような学級経営を進めさせなければならないし、保護者が学級担任を頭越しにして校長に直訴するような状況を生み出してはならない。「開かれた学校」の基本は、校長が学級担任を育てることと、校長と学級担任とのコミュニケーションを良好にしておくことにある。



 2つめに、不審者侵入防止等の危機管理と「開かれた学校」との問題である。

 「開かれた学校」の基本は担任の学級経営にあるというのが私の持論ではあるが、それは別にしても「フリー参観日」等の手だてを行うのは悪いことではない。地域の人々に「いつでも学校に来てください」と呼びかけるのは良いことだと思う。

 しかし、2年前の池田小学校事件以来、部外者は学校を訪問しにくくなっている状況がある。授業時の校門や玄関の施錠、学校立ち入り時の身分証明・事前連絡・氏名記帳等の手だてが行われて、気軽に学校に立ち寄ってみようという雰囲気ではなくなっている。フリー参観日等もとりやめになった例もあるようだ。

 児童生徒の大事な命を預かっている学校としては、「万が一」の危機にも対応できるように細心の注意を払わなければならないのは当然なのだが、池田小学校事件以来、実際に不審者学校侵入による殺傷事件は起こっていない。全国に約4万の小・中・高等学校があるのだから「万が一×4」の確率よりも低い。日数も考えれば事件以降約700日が経過しているので「万が一×2800」となる。

 再発防止のための取り組みが功を奏しているともいえるが、本当にそうなのだろうか。池田小事件の犯人「宅間」のような悪質な人間がまた現れたとしたら、殺傷を防ぐことは難しいだろう。学校中に施錠しても、ガラスを叩き割って侵入されたらひとたまりもないのである。

 確率が低いから無視してもよいという論理は成り立たないが、学校にとって「開かれた学校づくり」と「不審者侵入防止」のどちらが根本になるかを考えれば、答は明確であろう。

 教職員の(限られた)労力は、開かれた学校づくりのための学級経営に向けるべきものであり、不審者侵入防止のための校地巡視等に多くを費やし、そのために児童生徒とのふれ合いが減少するようでは本末転倒である。不審者侵入防止のためには、建物の改築・専属警備員の設置等、きちんと予算をかけて進めていくのが本筋であろう。



 3つめは、悪意のある不審者への対応が学校の責任であろうかという問題である。

 上でも少し触れているが、本気で児童生徒を殺傷しようとする人間が学校に来たら、ほとんど防ぎようはない。ハンマーひとつ持って来られただけでガラスは叩き割られ、児童生徒は危害を加えられる。

 学校でこのような殺傷事件が起きるのは「末」の現象である。「本」になっているのは、無差別殺傷をしようとする人間が世の中に放置されていることだろう。

 「本」の部分が改善されず、危険な人間が世の中に溢れるようになったら、学校の努力だけでは対応しきれない。



 近頃の教育界の揺れにも本末転倒の傾向を見るような気がする。

 昨年度から完全実施された新学習指導要領の「本」になるのが「ゆとりの中で生きる力」の育成である。これをしっかり進めていけば「末」である児童生徒に目指す成果が現れるはずであった。(このことについては、うんちく講座No.238「総合的な学習の時間?に答える」で触れている)

 ところが世の中に巻き起こった「学力低下不安論」に影響され、方向が大いに揺らいでしまった。これも「本」の精神をしっかり考えずに、「末」の現象に目を奪われてしまったからである。

 今回の教育改革は「本」の部分の考え方を改善したのだから、その成果が「末」に現れるには数年かかるはずである。その成果を待たないで、「末の部分がおかしくなってしまうのでは‥‥」という懸念にかられ、方向が揺らいでしまうということになった。

 私としては、本当の「ゆとり」の中で「生きる力」を育て、その結果「社会の人々と共に生きていく」という人間が生まれるという、今回の教育改革が本来目指した姿を見たかった気がする。



 最後に述べる例は、学校教育に限ったことではないかもしれない。

 とにかく「改革」を目指す人が増えたように思う。世の中に改革しなければならないことは多いから、それ自体は悪いことではない。しかし、中には「改革」そのものを目標にしている人もいるように思う。

 「従来通り」というのが全てよくないことで、なんでもかんでも従来とは違うようにしなければならないというのであれば、その人は改革が何なのかもわかっていない。

 従来のやり方がどうであったかを、まずきちんと把握することが必要である。長い間そのやり方が継続されてきたとすれば、そのやり方が多くの人に受け入れられ認められてきたということになる。「改革が大事」という偏った考え方で、それを無理に変えていくことはない。

 ただ「もう少しここを改めたら更に良くなるだろう」という部分があれば、そこを直していけばよい。中には抜本的に変えないとどうしようもないというものもあるだろうから、その場合は全面改革でもよいだろう。いずれにしても「これまでと変えたから改革を行った」ということではなく、改革は「改善」でなければならない。改革が「改悪」になる危険性もある。

 改善を行うには、その指導者が、学校・企業・国家等の組織運営についてのしっかりした基本理念(本)を持っていなければならない。「改革を進めなければ今時の指導者ではない」とか「前年度踏襲はよくないことである」といった浅い認識で、ふと思いついたように「末」の部分をいじろうとするのでは、指導者としての資質に欠けるのではと思う。



 本末についていろいろと述べてきたが、「本」のよしあしが現れてくるのは「末」であるから、「末」の状態に目を向けるのは大事なことである。しかし、「本」と「末」を同レベルに考えてしまう過ちに陥ってはいけない。ましてや「末」の状態を性急に変えようとするあまり「本」が見えなくなってしまっては、それこそ本末転倒である。

 あらゆる現象を見るときに「本」が何で「末」が何なのかをしっかり見ていくことが大切であるし、それができる人間を育てていくことが教育の仕事であると考える。
<03.04.14>

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