上手なほめ言葉
子育てのコツに「1つ叱って3つほめ」という言葉があるが、これは学校教育にも言えることであろう。
この頃は特に「それぞれの子供の良さを認める」という傾向が主流になっているので、子供を意識的にほめるということが重視されている。
ところが、いざほめることになると、これが難しい。実際の授業現場で見ても、上手にほめている例はなかなかないようだ。敢えて辛口にいうならば「とってつけたようなほめ方」や「うわべだけのほめ言葉」も多い。上手なほめ言葉を見つけるために四苦八苦している教師も多いのではないだろうか。
これが叱ることになると、そんなに苦労しない(^^;)
ちょっと古いうんちくのネタになるが、No.82「教師の禁句」に私などが昔よく使っていた皮肉っぽい叱り方の例がある。
こういうのは良くない例なので、そうならないように気をつけさえすれば、叱る言葉はあまり無理をしなくてもすらすらと出てくる(^^;)
Web上に「上手なほめ言葉」の例はないだろうかと、「上手な」「ほめ方」などをキーワードに検索してみた。「上手なほめ方・叱り方」が大事だというコンテンツは多かったのだが、具体的な例は少なく、あってもあまり参考にならないものが多かった。(犬のほめ方・叱り方というコンテンツが多いのは意外であった‥‥)
しかし、先日、「これだ!」という例を聞くことができた。
あるシンポジウムで、児童相談施設の職員の人のお話を聞いたのだが、その中に素晴らしい例があったのだ。
ちなみにこの方は「セラピスト」ということだった。セラピストの日本語訳もいろいろあるようだが、この場合は心理療法士ということらしい。
で、その「上手なほめ言葉」は、「すごいね。どうやったらそんなふうにできるようになったの?」というものだった。
その方が言うには「よく頑張ったね」とか「上手だね」とか「素晴らしいね」というのは、表面的なほめ言葉であって、ほめられた子供には強く響かないらしい。
親が自分の子供をほめる場合にはそれでもよいそうだが、指導にあたっている人間が使うには稚拙なほめ言葉だそうだ。
授業実践の記録を掲載しているサイトも多いが、それを見ると「いいね、いいね」とか「おっ、それは素晴らしいね」とか「きれいだね」などを連発している授業例も多い。
たまに言われるのなら、言われた子供も嬉しいだろうが、(セラピストの方の言葉だと)あまり連発すると逆効果になることもあるそうだ。
昔の殿様ならば、自分の家来をほめるときに「あっぱれ、あっぱれ」ですますことができただろう。言われた家来のほうも、それで十分に満足だったろうと思う。
身分の区別がはっきりしている場合には、いわゆる「上の人間」からちょっとほめられただけでも効果があるのだが、教師と子供の人間関係は何十年も前のような「目上の教師・目下の子供」という関係ではなくなっている。
「教師は子供よりもずっと上の立場だから『すごいね!』というだけで十分にほめたことになる」という考え方を持っている教師がいたとしたら改めたほうがよいだろう(^^;)
余談めいたハナシになるが、私が大学生の頃、アマチュアロックバンドをやっていて、プロのロックバンドのコンサートの前座をやることも多かった。
コンサートが終わった後、打ち上げでプロの方と飲んだりすることもあったが、そのときに「君たちのバンドもなかなかいいね」と言われると嬉しかったものの、それだけでは社交辞令のように感じた。たまに「プロになりたいのであれば、ウチの事務所に連絡してほしい。連絡先は‥‥」と名刺をもらったりすると、本当にほめられているように感じたものだ。
大人でも、単に「いいですね」と言われるよりも、具体的な何かがあったほうが嬉しいのだから、子供ならなおさら「自分の行為がちゃんと認められている」と自覚できるようなほめ言葉が有効であろう。
さて、例にあげた「すごいね。どうやったらそんなふうにできるようになったの?」だが、このほめ方が素晴らしいのは、ほめられた人間に自己の行為を振り返らせるところにある。
ほめるということの目的は、自分の行為を有用感を認識させ、次の活動への意欲を増大させることにある。
ただ単に「いいね、いいね」とか「上手だね」だけでは、精神的な満足感を与えることはできるかもしれないが、ほめられた人間が自分の行為を振り返り、そのやり方を他の活動にも生かすようにするには、その人間の個人的な内部の精神活動に期待するしかない。受け取る側がちょっとひねくれた受け取り方をしてしまえば「また、そんなおべっかを言って‥‥」という感じ方をすることにもなりかねない。
ところが「どうやったらそんなふうにできるようになったの?」と言われたら、それに答えて「こうやったらできるようになったんだよ」と言うかどうかは別にして(謙遜して『そんなことは‥‥』と言う場合もあるだろうから)、自分の心の中では、「そうか、あれをこうしたからできるようになったんだな‥‥」と振り返ってみるに違いない。
これは完全にほめることの目的に合致する。
他者(教師)からほめられたという満足感だけでなく、「自分はこういう努力をして、こういうことができるようになった。それが他の人にも価値ある行動だと認められた」という認識を持つことができるからである。
このほめ方は、いろんなバリエーションで活用できるだろう。
「今の発表のしかたはよかったね。どういう工夫をしたら、こんなにわかりやすい発表にまとめることができたの?」とか「こんなにたくさんの資料をまとめるには大変だったろうね。どういう方法で資料を集めたのかな?」等々である。
自分がそのために努力をしたのであれば、それが認められたという感じを持たせることができるし、それほど苦労をしないで何気なくやったことだったとしても「自分が何気なくやったあのことが良かったんだな」と自覚させることができる。
ほめられた子以外の子供にも「先生は○○さんを調子よくおだてているな」という感じを持たせないで、「そうか、そういうやり方でやるとうまくいくんだな」と考えさせることもできる。
単に子供の気分をよくするだけでなく、自己の行為を振り返らせ、その方法を自分の得意として自覚させ、自分の存在価値を認識させ、さらに他の子にも学習活動等のヒントを与えるということで、このほめ言葉は完璧だと思う。
ただ、このほめ言葉には問題もある。それは子供のやっていることをきちんと見ていないとほめることができないということだ。
子供がやっていることと違うことを、うわべだけ「すごいね。どうやったらそんなふうにできるようになったの?」とほめても、子供は「先生、何を言っているんだろう」としか受け取らないだろう。
「先生はきちんと自分のことを見ていてくれる」という意識を持たせることができるほめ方だけが、子供の心に響くのである。
そういう意味で、このほめ言葉は、たまにしか使えない(^^;)
「1つ叱って3つほめ」のペースでは間に合わない。実際には「10回叱って(怒ってではない)1つほめ」ぐらいになるかもしれない(^^;)
しかし、「ほめることが学習意欲向上の決め手」ということで、「いいね、いいね」とか「上手だね」とか「えらいぞ!」といったうわべだけの美辞麗句を何十と並べるよりも、心からその子の行動と存在価値を認めるようなほめ言葉をかけるほうが、何倍も価値があるのではないだろうか。
数は少なくても、その子の一生に影響を与えるようなほめ言葉を与えることは、子供をしっかりと見つめる教師の力量に関係すると思うし、それこそが教師の存在価値でもあると思う。
(例によって余談です‥‥)
このほめ言葉の話を聞いて、私の高校時代のことを思い出した。
高校の漢文の時間のこと。指名されて私が漢詩を朗読したら、先生が「佐々木君の朗読は素晴らしいね。こういう朗読ができるのは、佐々木君がこの漢詩の内容を完璧に理解しているからだと思うよ」とほめてくださった。
私はその漢詩について特別に下調べをしていたわけでもなく、偶然に上手く読めただけだったのだと思うが、そうやってほめられてみると、なんだか自分にその方面の才能がありそうな気がして、それからその先生の授業だけは予習・復習を欠かさずすることになった。(高校時代、不良に近い生活を送っていた私は、他の教科で予習・復習などをすることはなかった‥‥)
さらに、その出来事のちょっとあと、高校の徒歩遠足があり、その先生といっしょにしばらく歩く中で、「佐々木君は国語の教師なんかが合うのじゃないかな」と言われて、それが今日の私につながっているのである。当時、私は政治家になりたいと考えていたので、その先生の一言がなければ、今頃は地方議員でもやっていたかもしれない‥‥(^^;)
<01.09.02>
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