成人式のバカ騒ぎに思う



 新成人の傍若無人な態度に、地域の首長が激怒して式辞を中断したり、来年度の成人式のとりやめを検討すると発言したりという報道が恒例のようになってきた。



 新世紀が始まった今年も、その傾向はさらに強くなったようで、21世紀になっても風潮は世紀末という感もある。



 このことについて、面白半分流に5つほど考えてみた(^^;)



1.首長よしっかりせい

 せっかく催してやった成人式を、バカなガキどもが騒いだせいでぶちこわしにされて頭に血がのぼり、式辞を中断して「キミらのようなヤツは出て行け!」と激怒したり、式辞をやらなかったり、あるいは式辞を投げつけたりという行動に出る気持ちはわからなくもない。

 しかし、こんなバカ騒ぎは今年になって急に始まったものでもないだろう。これまでも似たような傾向はあったにちがいない。

 それがわかっていながら、型どおりの式辞を準備していて、ちゃんと聞いてもらえなかったからと怒るようでは認識が甘いと言わざるを得ない。



 県であろうと市町村であろうと、首長は選挙によって選ばれた政治家なはずだ。政治家にはすぐれた演説力がなくてはいけない。

 乱世の政治家は、敵陣に乗り込み、言葉ひとつを武器に敵を屈服させた。リンカーンもチャーチルも、名演説は自分に対する反対派が多い会場で残している。ヒトラーのように演説力で国民を狂気に駆り立てた例もある。現代でも「言葉の猛獣使い」田原総一朗が学生運動の闘士ばかりの中に乗り込み、言葉で勝利したという伝説もある。



 今や成人式で式辞を述べるのは、敵陣に乗り込むのと同じだということを自覚したほうがよい。心優しい若者たちと共に祝い合うというような生やさしいものではない。

 しかも新成人も、これからは立派な有権者である。カッとなって怒鳴りつけるよりも、全精力を注いで会場の人全てが聞き入るような話をすべきだし、首長にはそのくらいの実力が必要だと思う。



 授業中、子供が立って歩いたり、騒いで話を聞かなかったりすると「学級崩壊」ということになり、多くの場合、教師の指導力不足が指摘される。

 子供にも問題があると私は考えるのだが、教師の指導力を問題にするのであれば、自治体の首長自らが、「こうやって話をすれば、どんなひどいヤツでも話を聞くものだ」ということを身をもって示すべきであろう。

 誰かが準備してくれた原稿を読むだけでことがおさまるというような認識は甘いと思うし、原稿を読むつもりで登壇しても、それがうまくいかなかった場合は臨機応変に話を変えていくぐらいの力量が欲しい。



 今年がこういう有様だったからといって、来年度からやめてしまうというのも安易な考えだ。

 むしろ、年に一度、首長の実力を試す場として、積極的に活用していったらどうだろうか。「○○市では騒いでいた新成人たちも市長の話に涙を流した」などということが報道されたとすれば、何にも勝る宣伝になるではないか(^^;)



2.ほかの成人はどうしたの?

 ニュースを見る限りでは、新成人の全てが傍若無人な態度をとっていたわけではないようだ。騒いだのはごく一部の人間で、他の成人たちはおとなしくしていたようである。

 私が成人の立場でそこに参加していたとすれば、黙ってはいなかっただろうと思う。



 周囲の友人に声をかけ「おい、やろうぜ」と言う。私の年代であれば賛同者は数十人にはなるはずだ。

 まあ、20人もいればじゅうぶんである。その20人で、騒いでいる連中を取り囲む。取り囲むだけで効果はある。(私の年代であれば取り囲む人数もどんどん増えるはずだし)

 それで黙らないようであれば、「おい、出ろよ」と言う。相手がおとなしくなったり、出ていったりすればそれで終わりということにしておこう。いっしょに出て行って会場の裏に連れて行って‥‥というようなことは‥‥‥立場上書けない(^^;)



 それはともかく、ニュースなどで見る他の参会者は概しておとなしかったようだ。ある首長が「皆さんはどう思うのですか」と声をかけると、やっと拍手をするような具合で、「自分たちの力で悪いヤツをへこませよう」というような気迫が感じられない。

 うんちくのNo.217「あらさがしの衰退」でも触れたが、この頃の若い子たちは、他者とかかわろうという態度が弱いようだ。私の若い頃などは、ちょっと目立ったり生意気だったりすると、呼び出されてボコボコに‥‥などということがよくあり、それでも負けないで目立とうとしたり生意気を通そうとするには、自分も力を持たないといけないなどということが多かった。それがよいこととは言いきれないが、今の子供たちには、他の人が何をしようと関係ないという雰囲気が蔓延しているようにも思える。



3.飲酒参加お断り

 自治体によっては、成人式を自由参加から申し込み制に変えたという報道もあったが、自覚を持った人間だけを参加させるというやり方はひとつの方法かもしれない。

 ただ、今回参加してバカ騒ぎをした連中も、ふだんは気の小さい「よい子」なのかもしれない。ニュースで見る限りでは、騒いだ連中のほとんどが酒に酔っていたようだ。

 若い連中が飲み慣れない酒で酔っぱらい、ハメをはずしてしまうということは、じゅうぶんに考えられる。



 車を運転する場合は飲酒厳禁だし、パチンコ店などの遊興場でも「飲酒の方お断り」という看板がある。(お寺にもあるなぁ)

 成人式もそうしたらどうだろう。あらかじめ案内の文書等に「飲酒の方は入場をお断りします」という一項を設けておけば、酔っぱらいを閉め出すことができる。それを不服として騒ぐヤツがいたら‥‥‥、外で騒いでいてもらえばよい(^^;) あまりハメをはずして騒ぐようであれば、逮捕もできるし(^^;)



4.半端な反骨恥ずかしい

 成人式会場で騒ぐ連中は、「俺は体制の言いなりにはならないぞ」という反骨精神があるのかもしれない。

 しかし、それが反骨精神だと思っているのだとすれば、実に中途半端で甘っちょろいものである。ホントの反骨精神があるのだとすれば成人式なんか参加しないだろう。

 参加したとしても、ヘルメットに顔タオルスタイルで「成人式粉砕」などの看板を手に乱入するのが正統派だ‥‥うーむ、感覚が古いなぁ(^^;)

 いっちょうまえに晴れ着なんか着て、準備してもらった会場で騒ぐなんてのは幼児の感覚である。お釈迦様の掌の上で暴れる孫悟空のようなものだ。

 こんなことを恥ずかしいと感じるようになったとき、初めてこの子たちは大人になるのだろうが、はたしてそういう日はくるのだろうか?



5.この親にしてこの子あり

 バカ騒ぎをしている新成人のニュース映像を見るとき、この子たちの親はどんな親なのだろうと思ってしまう。

 身なりを見ると、羽織袴や立派なスーツを着たりしている。貧しい勤労青年が(うーん、ちょっと片寄った表現‥‥)が、こつこつとお金を貯めて衣装を準備したわけでもないようだ。

 親が買ってやったり、「成人式に着るものを買うから○十万円ちょうだい」などとせがまれて準備してやったりしたのだろう。それで我が子がこのザマなのだから、情けないものである。



 今、成人した子たちの親は、ほぼ私と同年代だろう。(私の息子も二十歳である)

 きちんとした子育てをしたかと問われると、自信を持って「ハイ」とは言えないのが現実だ。「自分の子はあれほどではない」と言うこともできるが、バカ騒ぎをする子たちの親の年代として、共に反省することが多い。



 親の問題だけではなく、「この世の中にしてこの子あり」とも言えるだろう。くどくは書かないが「大人を尊敬しなさい」と言えるような現実でなないように思う。

 「俺は今の大人のようにはならないぞ」という精一杯の意思表示が、あのバカ騒ぎだと考えるのは、あまりにも穿った見方だろうか?

<01.01.09>


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