あらさがしの衰退
「いじめる方法は簡単だよ‥‥」
ある飲み会で、いっしょに飲んでいた人がぽつんと言った。
私より少し先輩の人だった。(教員ではない)
学校に勤める私としては、ちょっと聞き捨てならない話なので、もう少し詳しく聞いてみた。
この人が言うのは、いわゆる今の「いじめ」とは、ちょっと違う意味の「いじめる方法」だった。
いばっていて態度が大きいヤツをやっつけてしまうというような、昔の子供の世界でよく見られた「いじめ」である。
この人は、子供の頃にそういうことが得意(^^;)だったのだと言う。
この人が言うには、とにかく、いじめたい相手の行動を、徹底的に見張ればよいのだそうだ。そして、みんなに知られると困るような行動を探す。
例えば、トイレに行ったあと、手を洗わないことや、その手で鼻をほじって、指をなめる癖があること。
あるいは、図書館から借りた本をずっと返さず、部屋の本棚に隠してあること。
ある日、間違えて母親の肌色シャツを着てきてしまったことでもよい。
それを見つけたら、みんなに言いふらせばよいのだそうだ。それで、いばっていた相手の権威は地におちてしまう。
「なるほど」と私は思った。
ちょっと陰湿ではあるが、効果はありそうである。
しかし、今の子供たちは、こういう方法を真似できないかもしれない。
この方法を行うには、深く、相手に関わらなければならない。そうでないと相手の「あら」などは見えてこないからだ。
でも、今の子供たちの「他者への関わり」は確実に薄くなってきているように思う。中にはクラスメートの名前さえよく知らないという子も出てきている。
今でも「いじめ」はあるのだが、これは相手のあら探しをして、それをとりたててからかうなどというものではないように思う。
あくまでも、いじめる側の「いじめると面白い」という感覚から起きてきているのだろう。いじめられる子への関わり方も、その子の日常生活全般に関わるというのではなく、その子が目の前にいるときだけの関わりなのではないだろうか。

この文章を書いている時点(99年7月)では、「サッ○ー・○ッチー熟女対決」がテレビのワイドショー等をにぎわしているが、これなどは「あの人は○○○した」とか「あのときにこう言った」ということをオバサンどうしが言い合っているわけだから、昔のタイプのいじめ(合い)である。
また、「あの○○が、○○と深夜のデート!」などという写真週刊誌等のスクープも、「相手の行動を徹底的に見張り、隠された事実をすっぱぬく」という点で、昔のいじめの手法の伝統を引き継ぐものである(^^;)
私たちは、そういったマスコミ上のいじめ的なものには、少なからず興味をもつのだが、現実の生活では、他者の行動に深く関わるということを意識的に避けてきているようにも思う。
田舎に住む私は、都会に出かけると、街を歩く人たちが互いに無関心なことに驚いてしまう。
派手な格好のおねえさんが歩いていたり、みすぼらしい格好の人が道端に寝ていたりすると、私はついきょろきょろと見てしまうのだが、都会の人はおかまいなしである。
たしかに、あれほど人がいるのだから、私のようにいちいち眺めていたのでは大変である。相互無関心というのは生活の知恵なのだろう。
そういう環境が、他者に関わろうとしない子供を育てているのかもしれない。(田舎でも同じような傾向が出てきてはいるが‥‥)
他者に無関心ということは、自分にだけ興味が向いているということにもなる。
前述したように、近頃のいじめは「自分が面白ければそれでよい」といった感覚からきているので、いじめられる側のことなどは全く考えていないのだから、人間とは思えないような残忍なことも平気でやってしまう。
相手の行動を徹底的に見張って、あらを探すというタイプのいじめならば、相手の悪いところも見つけるけれど、同時に良いところや、家庭の事情なども知ってしまうことになるから、そんなに非人道的なこともできなかったのではなかろうか。
自分のことだけにしか興味がなく、身近な人の名前も知らず、相手を○○さんと言えないので「あの人」とか「おたく」というような人間(オタクの語源はこれなのだそうだ)だけが増えてくれば、他者に関わっていくことも面倒になるから、いじめは減ってくるかもしれない。
ただ、自分のいらいらや不満を発散させるために、他者に危害を加えるような行動に出てしまうと、他人の人権を全く考えないような行動に出たり、不特定な相手を対象とする行動に出たりする危険もあるように思える。
近くの人には全く無関心で、テレビや雑誌のゴシップで代償しているような社会は、あまり健全とはいえない。
むしろ、他者と深く関わりすぎて、けんかになるほうが、人間としてはまともである。
あら探しの衰退は憂うべきことなのではないかと思う。
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