聞こえている曲はおなじみの文部省唱歌「おぼろ月夜」である。(ブラウザの設定によっては鳴らないかもしれません。その場合は申し訳ございません。)
作詞は、長野県出身の国文学者高野辰之、作曲が鳥取県出身の音楽家岡野貞一である。この二人は文部省の音楽教科書編集委員で、作詞作曲のゴールデン・コンビであり、二人が組んで作った曲には「春が来た」「春の小川」「もみじ」「ふるさと」など名曲が多い。
先の長野冬季オリンピックの閉会式で、この二人が作った「ふるさと」が歌われたのは、作詞の高野辰之氏が長野県出身だったということもあるようだ。(もちろん、そんな関係がなくても、この曲は日本を代表する名曲なのだが)
ところでタイトルの「おぼろ月夜」は、大正3年に「尋常小学唱歌」(六)に発表されて以来、今日にいたるまで、教科書に採り上げられて歌いつがれてきた。現在は小学校第6学年の歌唱共通教材となっている。
私も授業の中で、この曲を何度も扱っているが、その中で驚かせられるのは、この歌詞のすごさ、独自性である。
「菜の花畑に 入り日うすれ」で始まる1番の歌詞はよく知られているが、驚くべきは2番の歌詞の構造だ。
なんと、この歌詞は、「も」という助詞で扱われる並列の構造が5個も続く。(内容的には6個と考えてもよいだろう)
以下、それを詳述してみる。
まずは、「里わのほかげも」だ。
これで村の辺りの民家の窓からもれる灯りがイメージされる。
次に、「森の色も」となる。
夕暮れ迫る森の樹木の深緑がイメージされるだろう。
加えて、「田中の小道をたどる人も」とくる。(ここは二つの内容を表現していると考えてよい)
水田が広がる中を細い道が続いている風景と
そこに、家路を急ぐ人の姿が描かれている。
4番目は、「かわずのなく音(ね)も」だ。
風景画のようなイメージに、農村らしい生き生きとした音のイメージが加わる。
最後が、「かねの音(音)も」とくる。
前の蛙の鳴き声のにぎやかな生命感あふれる音と対照的に、夕暮れを感じさせる
のどかで少し寂しい響きが重なってくる。山際にある古いお寺の鐘つき堂の姿も
映像的に浮かんでくる。「かわず」の場合に「音」を「ね」と読ませているのに
対して、「かね」の「音」を「おと」としているのも見事だ。
なんと、作詞者の高野辰之は、ここまでを「も」でつなげてひっぱってきているのである。すごい!!並の作詞家だったら、ここまでがまんはできない。
貧窮問答歌で有名な山上憶良に、「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも」という歌があり、ここでも「も」による並列が3つ重ねられているが、この場合は同じ様な種類のものを重ねているだけで、「おぼろ月夜」のような、たたみかけてイメージを豊かにしていくような技法はない。
ここまで「も」でひっぱる技法だけでもすごいのに、高野辰之は、この後に、ものすごい仕掛けを加えているのである。
ここまで、5つの「も」によって、夕暮れの山に囲まれた農村の風景は、山水画のようにあざやかになっている。1番の歌詞とあわせると、遠景・近景すべてが見事にイメージ化されている。
ところが、ところがである!
次に出てくる言葉がもっとすごい!
さながら(すべて) かすめる(かすんでいる)ときてしまうのである。
せっかく、農村ののどかな夕暮れの風景をあざやかにイメージしていたのに、このひとことで、全てのイメージに、一瞬にしてぼんやりとしたスクリーンがかけられてしまう。(スクリーンの色はまだ明確でない)
「どうして?どうしてなの?」と問いたくなるところに、最後の決めフレーズが登場する。
「おぼろ月夜」だ!!
これで、先ほどかけられたスクリーンのソフトフォーカスの色は、月の光の黄色にそまる。そして聴く者は、いやおうなしに中空にうかぶぼんやりとした月をイメージするのである。(ここで超遠景が完結する)
なんというすごい言葉の技なのだろう!
これが単なる言葉だけでなく、3拍子でありながら全くそれを感じさせないメロディー(作曲者の岡野貞一もすごい)にのって表現されるとき、時間や空間を巨視的にとらえた宇宙的な空間がそこに現れると感じるのは、私の思いいれが強すぎるのだろうか?
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