二宮金次郎が幕末の貧しい農民で、苦労しながら学んで成功したことはよく知られています。幕末ですからコピー機などはありません。彼は本を写し、薪を背負いながらそれを読み学習しました。その姿が銅像として残っています。このように自分で努力して武士の身分まで上昇した彼は、明治時代、農地改革に尽力しました。 彼のいっしょうけんめいに働き、学ぶ姿に目をつけた政府は、彼を神格化し、民衆にその姿勢を浸透させようとしました。それは明治時代にいったん盛り上がり、大正時代には廃れました。ところが、昭和になって大日本帝国主義をとった政府は、二宮金次郎のような勤勉・勤労な姿勢を国民に浸透させ、愛国心を培うために彼の銅像を全国に建てました。いわば、当時の大日本帝国主義の象徴ともなったのです。そのため、戦争が終わると、彼の銅像を取り外そうとする動きがありました。実際、多くの学校で取り外されたのです。しかし、大日本帝国主義とははなれ、純粋な二宮金次郎の姿を奨励するものとして銅像が建てられている学校もあります。 ただ、戦前のイメージと結びつける人もあり、必ずしも彼の銅像が全ての人に認められてはいないようです。 |
岩谷小学校の二宮金次郎像は、全国的な傾向よりもやや早く、昭和7・8年頃に作られたらしい。昭和7年に校舎を現在の場所に移転した少し後に、東京に住む女性が寄贈したのだという。 その女性は、この地域の出身であるが、貧しい生まれで、いわゆる裏街道のような生き方をしながら、苦労して財をなし、出身地の学校に金次郎像を贈ったものらしい。 その女性の境遇のためか、あるいは当時の女性の身分の低さのためか、表立って除幕式のようなことは行われず、寄贈者の名前を台座に刻んで残すということもなかったらしい。 |