オウムと君が代
オウム真理教がまた復活してきたというニュースがあった。現在、裁判になっている教団幹部たちは犯罪者組織であることを自覚しながら犯行を重ねてきたわけだし、極刑をもって断罪されるべきだが、現在も活動を続けている末端の信者たちはどうなのであろうか。
オウムの教義はアサハラ(残念なことに私と同じ年齢である)の出任せのインチキだが、インチキなものほど他のものから借用してきたものが多いので、部分的に見れば哲学として優れている部分もあるだろう。(仏教やキリスト教のおいしいところを寄せ集めているだろうから)ただそれを自分の欲望のために勝手な解釈をこじつけて悪用したのが、アサハラの許されないところである。
心に悩みをもち、それから救われようとして宗教にすがる人間も多いだろう。それが偶然にもオウムだったという人もいたかもしれない。ストイックな修行の中で心の平静を得て、オウムを最高の宗教だと信じていた人も多かったのだろう。末端の信者の大半は、自分が属している集団が劣悪な犯罪者たちに率いられたものだとは全く考えていなかったのだろう。(実際は、そうやって自分の財産や労働力をだましとられていたのだろうが)
犯罪の概要が暴き出された今、だまされていたことに気づきオウムから離れた信者も多かったはずだが、修行や瞑想の場としてオウムから離れられない信者もいるのだろう。それをマインドコントロールが解けないと見ることもできるだろうが、オウムの教義の一部が、自分の人生哲学とぴたりと結びついてしまった人は、アサハラそのものがどうであろうと、オウム真理教から離れようとは思わないのかもしれない。
このような人々を、どう考えればよいのだろう。破防法を断行できなかったのは、そんな問題もあるのかもしれない。
このことと「君が代」問題は共通している部分があるようにも思える。
戦後50年以上が過ぎたことや、学習指導要領の「特別活動・社会科・音楽」に「君が代・日の丸」が「国歌・国旗」として明示されるようになったことで、かつてほど学校で「君が代・日の丸」を扱うことに反対する声は強くなくなったが、それでも断固として「国歌・国旗」として認めたくないという人はいる。
たしかに、戦争で日本が犯してきたあやまちをきちんと考え、アジアの国々に与えてきた迷惑を振り返ると、血塗られた歴史を通り過ぎてきて、侵略の旗印として使われた「日の丸・君が代」を、無反省に使用するのは問題があるのかもしれない。アジアの国々の老人の中には、「日の丸・君が代」に非常な憎悪の念をもっている人も少なくないだろうから。
しかし、戦争体験もなく、日本の侵略の歴史も知らされないまま育ってきた私にとって、君が代も日の丸も、単純に「歌」・「旗」として見ると、なかなかよいものに思えてしまう。若い人には、日の丸や君が代はオリンピックなどの爽やかなスポーツマンの姿と結びついているのかもしれない。
日本がかつてやったことも、オウムがやったことも、とても悪い。でも、現在残っているオウムの修行者や「君が代・日の丸」を完全に否定してしまうのもどうだろうか。
私個人としては、「君が代」は、かつての戦争のあやまちをきちんとふまえた上で、それを反省し、新たな平和を「千代に八千代に」誓う歌として、ずっと歌いついでいく国歌ととらえたい。
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