プロの教師?




はじめに

 (4年前に、私が誰に読ませるというわけでもなく、自分で書いてみたものを使っているので、少々、現在の状況と合わない部分もあるかもしれないが、その点はご了承を。特に「新しい学力観」という言葉は、これを書いた平成5年頃はおかしくないが、もう次の学習指導要領の話題が出ている現在ではちょっと陳腐かもしれない。)
 なお、この文章は「私自身がプロの教師でございます!」と自負するようなものではなく、「私こそプロの教師です!」と豪語するような方々には、この程度のことは考えていただきたいというニュアンスで書いた文章である。




教育のプロというからには

 忙しい毎日である。各種の学校訪問が終わったと思えば、今度は授業研究会。コンクールの作品締め切りに追われながらも、PTAとの飲み会等々。行事の合間に授業をやっているような具合で、ついつい子供にも声を荒らげてしまう。

 「新しい学力観?、それどころじゃありませんよ。」というのがホンネではなかろうか。でも、ちょっとここで考えなくてはいけない。新しい学力観なるものの本質ってなんだろうか。これまでの学力観と大きく変わったのは何なのか。子供の保護者や大学の後輩などに聞かれたときに1〜2分で説明ができるだろうか。

 できなければ、教育のプロとは言えない。

 教科書に書いてあるとおりのことを大声で説明し、市販のワークシートを書かせるだけだったら、教師でなくてもできる。教師用の技術書などの本に出ている、ちょっとした指導の技術なら、高校生だって真似ができる。

 教師は、教育技術者ではない。また、教育という仕事に追われる労働者でもない。「教育とは何なのか」「今、子供たちに何を指導しなければいけないのか」このことについてしっかりした考えをもって指導に当たることができなければ、教育ママや教育実習生と同じレベルの指導しかできない。

 しかも、おそろしいことに、そのような指導は誤りなのである。子供たちに必要な力をつけることができないばかりか、未来に生き抜くことのできない駄目な人間を育てることになるのである。

平成2年までの教育ではダメなのだ

 平成3年度から、新学習指導要領に基づく教育課程が実施された。昭和24年の学習指導要領以来、ほぼ10年ごとの5度目の改訂である。恒例の行事で大きな変化はないと感じるかもしれない。しかし、それは間違いである。今回は、いちばん土台になっている考え方が変わったのだ。

 極端な言い方をすれば、平成2年度までの指導はだめだったのである。だから変わったのだ。極論過ぎると言うならば、言い換えてもいいだろう。平成2年度までの指導のやり方では、これからの教育に対応できないと言うことだ。

 ところが、そのことを心から実感している教師がどれだけいるだろうか。平成2年度までと同じ指導をしている教師がほとんどなのではないかと思う。もっと意地悪く言えば、自分が教職に就いてからずっと同じ指導のやり方をしてはいないだろうか。あるいは、若い教師の場合には、自分が子供の頃に教えてもらった先生とおんなじやり方で指導しているのではないだろうか。それではだめなのである。若い教師も、ベテランの教師も、平成2年度までとは違った指導をしていなければ、新しい学力観などとはほど遠い指導をしていることになる。指導案の言葉遣いを変えても、形だけのコース別学習に取り組んでも、本質が変わらない限りは、未来に生きる子供たちを育てることはできない。

児童の実態に即してと言うけれど

 「児童の実態に即した指導をしなければならない」と、よく言われる。もっともなことである。では、その「児童の実態」とは何なのであろうか。CRTやNRTでの成績だろうか。アンケートの結果なのであろうか。

 ここで、学習指導案を書くときのことを思い出していただきたい。この場合の「児童の実態」とは、指導の目標に照らして見て必要な既習事項の定着の度合いとか、学習活動を支えるのに必要な、児童の「関心・意欲・態度」などであるはずである。算数のわり算の指導をする際に、「かけ算・ひき算ができる」「生活の中で身につけた計算の技能を使おうとする」などは、目標に照らして妥当な「児童の実態」である。しかし、「カタカナを読み書きできる」「マラソンに積極的に取り組もうとする」などは、「児童の実態」としてふさわしくないことは言うまでもない。

 ところが、学校教育全般を考えたとき、このような現象がまま見られるのである。児童に育てたい学力を考える場面で、「児童の学力の実態は、漢字テストの正解率が○○%で、計算テストの合格率は○○%。家庭学習の取り組み時間は、○年生の平均が○時間」のような例がよくある。

 今、子供たちに育てたい力はそれなのだろうか。そうではないはずである。ところがこのような現実が多く見られるのは、ただ一つ、「子供たちにどんな力を育てたいか」という認識が不足していることに原因がある。

子供たちに育てたい力を見きわめるために

 では、どうしたら、「子供たちに育てたい力」を見きわめることができるのだろうか。計算テスト・漢字テストなどの、いいかげんで些細な現状の把握によって得るものがないのは確かである。

 ずばり言おう。それは、「未来を考えること」である。

 子供たちは、これから10年、20年、30年、さらにそれ以上あとの未来を生きる。その時代がどんな世の中になるのか、まず、これを見きわめなければならない。そして、その社会で、よりよく生きるためには、どんな能力が必要となるのかを考えなければならない。さらに、その視点から、今の子供たちを見て、何が不足しているのか、それを育てるには、どんな活動をさせればいいのかを明確にしなければならない。

 これが、学校教育全般を考えたときの、「児童の実態」である。これを明確にしていくとき、「今、何を育てるのか」は、おのずからはっきりとしてくるはずである。

未来はどうなるか−「第三の波」から−

 未来はどんな社会になるのか。予言者でもない私には断言はできない。しかし、これまでの歴史の流れから、ある程度の予想はできるだろう。

 「第三の波」という本がある。トフラーという人の著で、かなりのベストセラーだそうだが、恥ずかしいことに、私は持ってはいるが流し読みしかしていない。しかし、いわゆるインテリの人の間では必読書のようで、様々な講演などで、よく、その話が出てくる。それと流し読みの印象によると、おおむね次のような内容のようである。

 人類の歴史の中には、今まで三つの大きな革命があって、その度に新しい社会が生まれた。
 一つ目は、農業革命。
 二つ目は、産業革命。
 三つ目が、情報革命である。

 一言でいうと、そんな内容のようだ。私なりに考えると、さらに次のようになる。

 その三つの革命のどれもが、「今まで、その活動をやっていたものが、別のものにとって変わる」ということで、革命的である。

 農業革命は、それまで自然がやっていた食物生産を、人間がやることになった。これによって、社会集団が生まれ、管理階級が誕生した。

 産業革命は、それまで人力に頼っていた作業を、蒸気機関・電力機関などの機械がやることになった。これによって、ホワイトカラーと呼ばれる頭脳労働者が誕生した。

 情報革命は、それまで人間の頭脳の中で行われていた記憶・思考・判断といった活動が機械によって行われるようになった。これによって、超知識階級、あるいは超情報階級という人種が生まれるはずである。

 三つ目の、情報革命は、現在進行中である。今の子供たちが成人する21世紀には、ほぼ完成したかたちを見るだろう。

 ただ、三つの革命のうち、情報革命はいちばん分かりにくい。もう少し、かみくだいて考えてみよう。

 一万とか、一千万とか、一億などという大きな数は、具体物というよりは概念として存在する。3つや4つといった数は、目で見て直観的に識別できるが、一目で見て一億を識別できる人間はいない。(日本の人口のように、具体的にも存在することはするが)つまり、一億という数は人間の頭脳の中で概念として存在するものなのである。したがって、四億五千七百万から二億四千五百二十万三千九十六を引くなどという作業は、ある程度の数的知識と技能をもった人間が、頭の中で行う作業だったのである。

 ところが、これをコンピュータ等の電子計算機なるものが、簡単にやってくれるようになった。これらの機械は、人間の到底及ばない速度と精度とで、今まで人間が頭脳の中でやっていた作業を、とってかわってやってくれるようになったのである。

 ビデオテープや、ワープロ・パソコンのフロッピーディスクなども、それまで人間がやっていた「記憶」という活動を、その何千倍・何万倍という精度と記憶量で引き受けてくれる。

 極論すると、もう、人間は、必死に計算したり、暗記したりすることは必要がなくなったのである。記憶術や計算能力は、特殊な用途を除いては必要がない。今またソロバンが小学校の算数に復活してきたが、何らかの数的思考力を育てるためというならば別だが、技能として習熟させるといったねらいならば、全く必要がないのである。ここ数年は役立つのかもしれないが、20年、30年先の未来を考えたら、今、10時間以上も算数の指導の時間をさいて指導する必要はかけらもない。

 このような時代が、今、始まろうとしている。このことをはっきりと認識し、そこから子供に育てたい力を見極め、それに関しての現在の子供の実態を見ていかないと、過去の亡霊を引きずった、とんでもない「児童の実態」をもとに教育を進めることになってしまうだろう。


こんな人間が必要になる

 知識は重視しなくてよい。昭和初期の頃と違い、今は覚えるべき知識が多すぎる。かつ、今、覚えたとしても、20年後に生きてはたらく知識は半分もないだろう。むしろ学校で教わらなかった知識が新たに必要になってくるはずだ。技能にしても同じである。

 必要となるのは、現在身につけている知識や技能の絶対量ではなく、自分で知識や技能を獲得していく力、そして積極的にそれを行おうとする意欲である。

 これがまさに「新しい学力」である。そして、平成2年までの学校教育のやり方では、これを育てることができないというので、教育課程の改訂が行われたのだ。

第3の教育改革

 だから、平成3年度の新学習指導要領の実施は、10年ごとの恒例の行事ではない。人によっては今回の改訂を第3の教育改革ともいう。江戸時代から明治になった際の学制の発布、終戦による昭和の学制改革、それに匹敵する改革であるというとらえ方だ。私もそのぐらいの意識で今回の改訂を重要視すべきだと思う。

授業にむかう3つの立場

 そこまで大げさに考えなくても、授業というものをどうとらえるかという教師のあり方を見るとき、昭和の改革以降でも3つのパターンに分けて考えられると思う。

 一つ目は、教材そのものを最も重要視するパターンである。国語科で今西祐行の「一つの花」を指導するときに、「○の場面の○行目の表現をこのように読みとらせなければ、この作品の世界を理解したことにはならない」などというもので、最も古く、かつ盛んに行われた指導である。教材研究が最優先する指導である。

 二つ目は、指導法を重視するパターンである。こちらになると教材そのものよりも、その学習で子供に身につけさせたい知識や技能が主に考えられ、そのための手だてを工夫していくやり方である。

 三つ目は、子供の意欲や態度を育てることを重視するパターンである。知識ではなく知恵を育てようとするもので、子供の認識・思考の仕方や内発的動機付けなどの研究が主になるが、まだ具体的なあり方が明確になっているとはいえない。

 この三つ目が、新しい学力観に立つ指導に他ならない。そして、それはまだじゅうぶんに開発されてはいないのである。

理念→理論→方法

 「○○観」というとき、「観」とは理念である。理念のレベルでものを言っても実現できない。理念が理論となり、その先に方法があるとき、現実化していく。(理論が欠落することも多いが)

 新しい学力観に立つ指導は、まだ理論も方法も確立されていない。前述したように、子供が生きる未来を見据え、今、何をなすべきかを、一人一人の教師が考え、新しい方法を工夫していく必要がある。それは容易なことではない。教師のためのマニュアル集を見てすぐに実践できるようなことではない。悩み、苦労していかなければならないことだ。ただ、それを避けていくことはできない。

 こういったことをきちんと考えているのが「プロの教師」だと私は考えるのである。



 以上が、平成5年頃に私が書いていた文章である。



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