(引用の文章です)
可奈子さん
私が小学校に入学して最初の担任は、校長先生の奥様の丹波先生でした。
教え方は丁寧でしたし、どの子にもやさしくしてくれました。病気や怪我の子には、必ず声をかけてくれました。でも、怠けたり乱暴したりする子がいると、ほかの子までが二度としまいと思うほど、諄々と諭すものでした。大柄な体に和服をキチンと着た先生が教室にいるだけで、私たちはみな、親鳥の羽の下の雛のように安心し、勉強嫌いの子も行儀の悪い子も、先生の言うことを聞いてよい子になろうという気になるのでした。
この先生に二年生まで受け持っていただいた私は、担任の先生とはこういうものだと思い込んでしまったのです。
三年生のとき、担任になった川中梅吉先生は、始業式の翌日自宅で中風になり、入院してしまいました。先生が中風になるなんて、私には思いがけないことでした。しばらくは代わりに校長先生が担任されましたが、やがて新しい先生が来ました。
新任式のために体操場に並んでいた私たちは、校長先生に案内されてきた先生を見て、びっくりしてしまいました。あまりに若くてハイカラだったからです。大きなリボンのついた白い洋服を着たその先生は、キングという雑誌の口絵にのっている女優のように見えました。校長先生の紹介に続いて壇に上り、「白井ユリです。どうぞよろしく」と笑顔で挨拶する新しい先生に、私たちは口をあけて見とれていました。
次に、丹波先生のひくオルガンに合わせて、「先生を迎える歌」を歌いました。
- 新たに来ませるわが師の君よ
- 今日より楽しく教えを受けて
- 花咲き鳥鳴く学びの園生に
- いざいざ励まんみ袖にすがりて
歌いながら私は、洋服のこの先生には、丹波先生のときみたいに、袖にすがることはできないだろうと思いました。−−−こうして白井先生は私たちの担任になりました。
白井先生になってから、学級が落ち着かなくなりました。若くてハイカラな先生に気に入られようとする子がふえたからです。丹波先生は、私のように首をすくめて人の陰に隠れている子をも、しっかり見ていて言葉をかけてくれたのに、白井先生は、活発で目立つ子ばかり相手にしているみたいで私は不満でした。これまでよりも学校が楽しくなくなり、私は、家の土蔵の二階に上がって古本を読むことばかり多くなりました。
五月は先生方が総出で家庭訪問をする季節です。私の住む堀内部落を訪れる日も決まりました。家庭訪問の日には、先生方が子供の家を訪ねた後で、保護者と先生方が全員、部落の集会所に集まって話し合いをする「主婦会」というのがありました。その会では、部落の子供の何人かが、短い時間、学芸発表をするのが例でした。
ある日の放課後、私は白井先生に呼ばれ、主婦会で短い物語の発表をしてほしいができるか、と聞かれました。もう一人、令子さんには自作の詩を読んでもらうのだそうです。
白井先生に声をかけられて、私は嬉しさに体が熱くなるほどでした。同級生の中でも特に活発で勉強もできる令子さんと一緒だというのも思いがけないことです。私は少しもじもじした後で先生に「出来ます」と答えました。
実はその前年の秋の学芸会のとき、私は丹波先生の言いつけで、村人の前で”蟻(あり)通し”という短い物語の発表をしたのです。白井先生は、きっと誰かからそのことを聞いたのに違いありません。
”蟻通し”というのは、「珠の中に穿(うが)たれた曲がりくねった細い穴に、糸を通すにはどうするか?」という王様の難題を、村の老婆が蟻を使って見事に解決して、村人を救うお話です。この物語を、私は土蔵の二階にあった古本で読みました。でも今度もまた”蟻通し”というわけにはいきません。
三年生になってから読んだ物語の中で私は、安寿と厨子王の出てくる「山椒大夫」が好きでした。舟の上で泣き叫び、呼び合う親子の挿絵もありましたから、子供向けに書かれた本だったろうと思いますが、私はすっかりこの物語のとりこになり、ときには涙を流しながら、繰り返し読んでいたのです。筋はもちろんだいたいわかっています。
白井先生に言われたとき、この物語がすぐに思い浮かびました。
令子さんはすばらしい朗読をするに違いありません。とても令子さんのようには出来なくても、途中で詰まったりしないようにしっかり暗記だけはしておかなければなりません。うちの母も来るだろうし、白井先生にも恥をかかせられない、ことに、いつも三郎や政雄たちとばかり仲よくしている令子さんに、できればいい所を見せてやりたいと思いました。私は”蟻通し”のときの何倍も熱心に、発表の準備をしました。
「山椒大夫」の物語は、親子と姥(うば)の四人連れが、越後の春日を通って今津へ出る道を、難儀しながら旅をしているところから始まります。旅慣れぬ一行は、人買いの山岡太夫に騙(だま)されて、直江の浦から二艘(そう)の舟に乗せられて、親子は海の上で北と南に引き裂かれてしまいます。親子が泣き叫ぶこの場面と、丹後の山椒大夫に買われて難儀をする場面は、あんまり可哀想なので私の話からは外すことにしました。そして、冬が過ぎて春が来て、また外で仕事をする日のことから始めることにし、これを私の話の出だしにしたのです。
「安寿と厨子王は背に籠を負い、腰に鎌をさして、手を引き合って木戸を出た。山椒大夫の所に来てから、二人一緒に歩くのはこれがはじめてである−−」
次からは長くならぬように、物語から私の好きな所だけを抜いて、順序に話をつないでいくことにしました。
<中略>
物語の順序が決まると、私はそれを紙に書いて暗記にかかりました。
「安寿と厨子王は背に籠を負い、腰に鎌をさして−−」と、学校の行き帰りにも、畑で草取りをするときも、風呂の焚き口でも繰り返しました。兄たちは私を「オイ、厨子王」と呼ぶほどでした。この物語は題名がなぜか「山椒大夫」ですが、いちばん多く出てくるのは厨子王なのです。
こうして私は、主婦会の数日前までには、紙を見なくても少しもつかえずお話ができるようになりました。白井先生や令子さんや、主婦の人たちの前でお話する日を、待ち遠しいとさえ思うようになりました。
家庭訪問の日は、部落の子供が総出で先生を各家庭に案内して回り、祭りのように賑やかです。それも終わって主婦会の時間が近くなると、先生たちも母親たちも集会所にやってきます。父親や爺さん婆さんも何人か来ます。案内の用がなくなった子供たちもすぐには帰らずに、集会所の周りの土手や草むらでふざけ合っています。高等科の人が上級生らしく、「静かに!」などと注意しています。
令子さんはいつものように活発に、友だちと笑い転げています。「詩の朗読は、暗記がいらなくていいなあ」と私は思いました。私は平静を装いながらも心の中は張り詰めて、遊びにも加わらず、「安寿と厨子王は−−」という出だしを繰り返していました。
主婦会が始まってからずいぶん時間がたっても白井先生は迎えに来ません。家々の間に煙がたなびいて、子供たちは夕方の手伝いに帰っていきます。広場には私と令子さんのほか数人しか残っていません。ブランコに揺られている令子さんも、少し緊張しているようです。私は、十日もの間一生懸命に練習した物語を、いま発表するのだと思うと、ブルッと身震いが出るほどです。
ようやく白井先生が入口に顔を出して手招きしました。私と令子さんは小走りに先生の所に行きました。先生は、会場の邪魔にならないように、声をひそめて言いました。
「会議が長くなっているの。とても二人の発表は無理だから、今日は令子さんの詩の朗読だけやってもらうわ。待たせて悪かったけど、あなたはもう帰っていいわ」
友人の手前もあって何か強がりを言って家に帰り、土蔵の二階で一人になると、思いがけず涙がボロボロとこぼれ落ちて、誰もいないのを幸いに、私は少しの間そこに突っ伏して泣きました。何も悪いことをした覚えもないのに、どうして私はこんなひどい目に遭うのか。白井先生もほかの先生も、令子さんもみんな憎いと思いました。そして、白井先生が担任になってからはロクなことがないと思いました。
地区の習字大会のときも、なぜか飛び抜けて字の下手な私を選手に加えて練習させ、一日でもう「あなたは明日から残らなくていいわ」と帰されました。
「明日の日曜日に先生の家に遊びにおいで。迎えに来るから十時に教室にいるのよ」と言われた五、六人の中に私もいて、翌日母からよそ行きの着物を着せてもらって出かけたら、教室にも体操場にも誰もいず、ひとり家に帰ったこともありました。あれは十時ではなく九時にすると、後で先生から聞いたと友人の一人は言ったけれど、私は聞いていないのです。私はこうして、いつもはずされてきたのです。
私は愛想も悪いし気も利かないから、白井先生はアテにしないのだと諦めていたのを、思いがけず主婦会での発表に選ばれて、こんなに一生懸命に練習したのに「あなたはもういい」なんて‥‥‥。先生なんてこんなものか、学校なんてもういやだ。
そんなことを思っているうちに、私はそのまま眠ってしまいました。
呼びに来た弟に起こされて目がさめると、もう夕食の時間でした。
みんながお膳についたとき、母が大きな声で言いました。
「主婦会で聞けなかった”山椒大夫”のお話を、ご飯がすんだらみんなで聞こう!」
打ち合わせ済みと見えて、兄も姉も弟も、父までも拍手をしてくれました。暗い気持ちに沈んでいた私には、みんなの明るい顔がとても眩しく見えました。ご飯を食べているうちに、私は少しずつ元気が出てきました。そう言えば今日は朝から緊張していて、ご飯ものどを通らないで、私はおなかがペコペコだったのです。
わが家の夕食は、いつもアッという間に終わります。父は晩酌を続けていましたが、母から元気な声がかかりました。
「では、お願いします!」
私は立ち上がって一礼し、大きく息を吸ってから話を始めました。
「安寿と厨子王は背に籠を負い、腰に鎌をさして、手を引き合って木戸を出た。山椒大夫の所に来てから、二人一緒に歩くのはこれがはじめてである−−」
寝る前に、母は私を前にすわらせて、こんなことを言いました。
「−−世の中はお天道(てんとう)様と同じで、みんなに都合よく照るとは限らぬ。風の都合で遠足の日が雨になることもある。学校の先生も同じこと、主婦会の時間を守るためお前との約束を守れないこともある。それに腹を立ててはならぬ−−」
「学校の先生は神様ではない。ことに白井先生は丹波先生よりずっと若い。行き届かぬ所もあるだろう。その代わりお前たちが大きくなっている。気に入らぬ所だけを見て腹を立てては勉強にならぬ。善い所を見つけて学ぶのがお前の勉強だ−−」
「主婦会で発表できず残念だろうが、発表することがそんなに大事か。子供のうちは、発表より稽古(けいこ)の方がずっと大事だ。白井先生のおかげで、読んだり、書いたり、暗記したりしたことは、一生役立つ宝物だ。有難いと思わなければ−−」
母の目に涙が光っていました。今にして思えば、発表が取りやめになって、いちばん残念だったのは、もしかすれば母だったのかも知れません。
私は次の日元気に学校に行きました。白井先生にもひねくれないで挨拶しました。
一学期の終わるころ白井先生は、私の書いた詩を教室の掲示板に張ってくれました。
私に強烈な印象を残したこの先生は、一年きりで学校を去り、お嫁に行きました。
母の言う通り、「山椒大夫」は私の一生の愛読書になりました。そして、森鴎外を知り、「高瀬舟」も「最後の一句」も読みました。露伴や、逍遙や、紅葉の名も知りました。みんな、白井先生から「幻の発表」を言いつかったおかげです。
可奈子さん
学校が楽しい所であり続けることは、何とむずかしいことでしょう。どんな練達の教師でも、全部の子供の胸の内を思いやり、恥をかかせず、悲しませず、喜び溢れるように取り運ぶ、そんな神様のようなことが出来るわけはないのです。子供は朝に家を出れば、必ず心にいくばくかの傷を負って帰ります。私のように内気で臆病な子は、ボロボロに打ちのめされることもしばしばです。
だから家庭があり親がいるのです。家庭は心の港です。そこでおいしいご飯を食べ、家族の暖かい励ましを受ければ、また翌日、元気に港を出ることができるのです。三年生のとき、学校嫌いの危機に瀕していた私が、どうにかグレずに学校に行けたのは、あの夜、母から教師とのつき合い方を教えてもらったからです。
−−あれから五十年後、全国を吹き荒れる中学生非行の嵐の中で、私はまたも親の教育力の強さを思い知らされました。教師や周りの大人に裏切られても、信頼する親を持つ子は必ず立ち直り、教師や周りの大人がどんなに手を差し伸べても、親に絶望した子は救い得ない現実に、何度も何度も出遭ったからです。
(以上で引用終わり)
引用した文章は、船越準蔵氏の著書「母からもらった赤いマント」の冒頭にある「山椒大夫」という文章です。
私のホームページには「千客万来ルーム」という掲示板がありますが、そこで小中学生を持つ親御さんから、担任や学校に対する不信感について相談されたり質問されたりすることがあります。(メールでいただくこともあります)
書き込みの内容を読むと、担任や学校の対応に落ち度があるような印象を受けることも多いのですが、何らかのトラブルがあった場合、それに関係する双方の言い分を聞かないことには判断ができないというのが原則ですし、現職の教師である私の立場上、「それは担任が悪いですね」と断定することもできません。
書き込んでくださる方やメールをくださる方は、私の返答に何かの方向性を期待してくださるのではないかと思いますが、私自身、明快な回答をできない状況ですし、中途半端な回答で、当事者の方のトラブルに「火に油を注ぐ」ようなことになって、子供さんが不幸な状況になってしまうのも心配で、こういう相談を受けたときに、自分はどういう対応をすればよいか悩んでしまうのです。
ちょうどそういうような状態にあったときにめぐりあったのが前掲の文章でした。
これを読んで私は思わず「これだ!」と思いました。
文章に出てくる白井先生(船越氏によると登場人物は仮名だそうです)のような態度は、教師としてはとても良くないものです。しかし、気づかないうちに子供の心を傷つけるような言動を、私などもしょっちゅうしているかもしれません。教師の立場にあるものが自戒するためにもとても勉強になる文章です。
しかし、船越氏の文章にもあるように「教師は神様ではない」わけで、不幸にして自分の子供が教師によって傷つけられたという親御さんもいることでしょう。また、そういう言動が多い教師が我が子の担任になった場合、「こんな担任に我が子はまかせられない」と感じる保護者の方もいるでしょうし、その気持ちを自分の子供さんや、知人、あるいは教育委員会等に話す方もいらっしゃるかと思います。
その結果、最悪の場合には、裁判沙汰になったり、子供さんが学校嫌いになったりということにもなりかねません。
前掲の「山椒大夫」の場合もそういう危機をはらんでいたと思います。著者の船越氏もひとつ間違えば教師不信になり、学校嫌い・不登校になっていたかもしれません。
しかし、船越氏のお母さんは、なんと見事な対応をしたのでしょう。このお母さんがあってこそ、我が県の教育界でも傑出した存在である船越氏が育ったのではないかと思います。
「山椒大夫」の文章が収録されている「母からもらった赤いマント」のタイトルにもなっている「赤いマント」という文章(ここでは紹介できませんが)には、さらにすごい(陳腐な表現ですみません。でも文字通りすごいのです)お母さんの姿が書かれています。そこに描かれているのは、親としての、あるいは親として生きることの気迫でした。
学校生活の中で、子供たちが辛い思いをして生きていかなければならないようにしないためには、担任等の教師がしっかりすることが一番の条件ですし、教師はそれを肝に銘じて子供に接していかなければなりません。
しかし、不幸にして、そうでない状況に子供が陥ったときに、最後の砦となるのが親ではないでしょうか。子供と一対一の対応ができるのは親しかいないのです。
これ以上、私がくどくどと駄文を綴ると、せっかくの船越氏の名文がつや消しになってしまいます(^^;)
以下、船越氏について、若干触れて、終わりにします。
この文章を私のホームページで紹介させていただくにあたっては、船越先生に直接電話をし、事情を話して了解を得ました。
船越先生にお目にかかったことは一度しかなく、緊張して電話をしたのですが、快く承諾くださり、暖かなお声に心が安らぐ思いでした。
船越準蔵先生は、大正15年、秋田県明治村(現羽後町)生まれで、秋田市立山王中学校校長として昭和62年に退職なされています。
退職後も講演と執筆活動をなされ、私たち教師に大きな示唆を与え続けてくださっています。私の最も尊敬する教育者のお一人です。出版された著作物は以下の通りです。(「教師になった可奈子への手紙」というシリーズで出されています)
教師になった可奈子への手紙
公人の友社
B6版242頁
1,236円(税込)
平成元年9月
砂に書いたSOS
公人の友社
B6版243頁
1,236円(税込)
平成2年10月
教師という恐ろしい仕事
公人の友社
B6版258頁
1,236円(税込)
平成4年4月
うちの親は、最高!
公人印刷
B6版245頁
1,300円(税込)
平成7年7月
母からもらった赤いマント
竹内印刷(株)
出版事業部
B6版280頁
1,300円(税込)
平成9年12月
いずれも、教職にある者にとってはぜひ読んでいただきたい内容ですし、子供を持つ親御さんにもお勧めしたい素晴らしい本です。
<03.01.19>