登山家の総合的な生きる力


 登山家の方の講演を聞く機会があった。

 元教員の方でプロの登山家ではないのだが(登山家にプロってあるのかな)、日本国内の山はもちろん世界各地の高峰に登った方である。



 講演は登山の体験が中心で、世界中の山で撮った美しい写真をスライドで見せてくれる楽しいものであったが、私が心をひかれたのは、写真の美しさよりも、その方の多岐にわたる知識と能力であった。

 私が昔から尊敬している方で、その方の素晴らしさに若造の私は到底かなうはずもないのだが、それは承知の上で「このことについて私は絶対にかなわない」というものを列挙してみよう(^^;)



植物の知識
 高山植物はもちろん、高度や気候による植物生態の違いなどを熟知している。植物を見ても「草」としか言えず、花といえばチューリップとサクラぐらいしか知識のない私は足元にも及ばない。

気象や天文の知識
 雲を見て気象の変化を予知したり、星座から位置や時刻を知る知識は抜群である。それにくらべて私が(ちょっとは得意なつもりの)天体の知識などは、しょせん本の上での知識でしかない。

健康や医学の知識
 高い山に登るときに避けて通れないのが高山病。講演ではそれで命を失った実例も多くあげられた。高山病発生のメカニズム、その対処法など、きちんとした知識がないと命取りになるのだろう。

写真の技術
 山の愛好家の方には写真の技術も素晴らしい方が多い。私などが普段目にすることのないような美しい風景を目にする方は、それをできるだけ美しく記録したいという意欲が生まれ、それが写真技術の向上につながるのだろう。

お料理(^^;)
 山に登る方は基本的に食事も自分で作る。ここ何十年も自分で他人が作った食事ばかりを口にしている私とは大違いである(^^;) 気圧の低い高地で手早く栄養のある食事を作る登山家は名コックである。石でかまどを作ったり、拾った薪で火をたいたりするのは私はからっきし苦手である(^^;)

国際情勢や歴史
 海外の山に登るには、現地の政治事情やこれまでの歴史を知ることが必須である。アフリカやアジアの国名や位置も確かでない私には、この登山家の方の体験談は、それこそ他国の話のように感じる(^^;) 書物で世界の国々のことを知っているつもりでも、実際に自分の足でそこを歩き、肌で感じた方にはかなわない。

経済観念
 限られた予算で目的を達成するためには、細部に留意した支出計画を立てなければならないし、そのときそのときの国際経済事情にも精通していなければならない。自称「経済観念破綻者」の私とは別世界の人のように感じる(^^;)

体力
 登山は命がけの行動である。常日頃から意識的に身体を鍛え、健康管理を図らないと目的は達せられない。ちょっと階段を上るだけで息切れし、慢性的な寝不足とビールの飲み過ぎで、毎朝重い頭ででかける私は、登山家の爪の垢でも煎じて飲んだほうがよい(^^;)

人格
 高峰への登山は極限の状態を強いられる。仲間と協力し、(最終的に)楽しい体験をするためには、自分を律し協調を重んじる精神力が必要である。山で出会った初対面の人とも打ち解けられる社交性も必要であろう。パソコンのディスプレイと向き合っている時間がいちばん多い私にそういう力はあるだろうか?

音楽
 山での歌は疲れた身体と心を癒し、エネルギーを生み出す。登山家の方は歌もうまい方が多いようだ。私も歌にはちょっと自信があるのだが(^^;)しょせんは「もてたい」「目立ちたい」という下心が見え見えの歌唱力。心にしみる歌という観点では登山家の方の歌に遠く及ばない‥‥。



 まだまだ思いつくことはいくらでもあるのだが、書いているうちに自分自身のことを省みて淋しくなってきたので、このへんでやめることにしよう(^^;)

 要するに、登山家の方は、オールマイティに近い力を持っているということである。



 もちろん、これらの優れた知識や能力をこの方が子供の頃から持っていたわけではないだろう。登山をする中で少しずつ身につけていったものだと思う。



 上のような優れた力を列挙しているうちに、あることに気づいた。

 それは、これらの力が登山をする上で必要とされこと、登山をする中でこれらの力を高めたいと感じるであろうこと、高まった力が登山をするときに総合的に生きてはたらくということである。

 つまり、行動することと学ぶことが見事に一体化しているのである。



 これは新学習指導要領で「自分で課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力」「自らを律しつつ、他人と協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性とたくましく生きるための健康と体力」と説明している「生きる力」にほかならない。

 なかでも新学習指導要領の目玉となっている「総合的な学習の時間」が目指すものは、この登山家の方の姿そのものであるとも言える。



 上のダメな例として挙げた私のことを振り返ってみよう。

 私が一般的な方よりはちょっと自信があるつもりでいる「星や星座についての知識」は、本を読んで身につけたものである。

 本で読んだことを確かめるために夜空を見上げたことはあるし、知識が増えたために子供の頃よりは夜空が違って見えるようにはなったが、知識が生活に結びついているかというとそうではない。

 登山家ならば、夜に山に登るとき、季節と方角と時間が星座の位置に結びつくはずであるし、星について知識を得ようと本を開くときにも、体験と感動をもって見た星についての知識は身につき方が一般人とは違うだろう。

 ここに私と登山家の方との違いがある。



 総合的な学習の時間について論議するとき、指導や学習の形態について話題にされることが多い。「このやり方は一斉指導の形態で、学習の対象も理科的なものに限られているので、総合的な学習の理想とはほど遠い‥‥」などと言われるのである。

 大事な視点ではあるが、そういうことばかりにこだわっていると、本来「総合的な学習の時間」が目指しているものを見失ってしまいそうな気がする。

 どんなふうに学習させるかだけではなく、どんな人間を育てたいかが最初に語られるべきである。



 教科の学習の成績がよくても、知識がばらばらに身につくだけで、それを生活に生かせない(私を含めた)大人の姿が問題になり、その対策として生まれてきたのが「総合的な学習の時間」である。

 大人の実態の背景にあるのが、「実際に身体を動かして体験し、自分に必要な力を見つけ、それを学んで、得た力を生かして活動する」という生き生きとした活動場面とその体験の不足である。



 登山家の方が「生きてはたらく総合的な力」を身につけたのは、登山という活動をしたからである。

 子供たちに生きる力を総合的につけようとするならば、どんな活動の場面を設定するかが最も大事であるように思える。

 その活動の場を考えることを中途半端にして、活動形態や指導方法の面にばかり気をつかっていては、本質を見失うことになる。



 ともすれば、そういう面に目がむきがちであった私にとって、この登山家の方の講演(の内容というよりも生き方と力)は、大きなインパクトを与えてくれた。

<02.03.03>


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