ホンネの評価
来年度(平成14)から新しい学習指導要領が実施になり、それに伴って指導要録(児童生徒の学籍並びに指導の過程及び結果の要約を記載し、その後の指導及び外部に対する証明等に役立たせるための原簿)を改善することになる。その評価方法等をどうするかということが話題になっている。
その件については、様々な出版物も出ているので、それらを参考にすればよいというのが、私の考えである。つまり、どちらかというと、そんなに深刻に悩まなくても、出版物などで出された方法をそのまま真似すればよいという、気楽な考えである。
「個人情報の本人への開示」という時代の流れの中で、指導要録に「この子は○○の技能が未熟であり、今後は個別の指導を行わないと学習についていけない」というようなことは書かなくなってきている。
指導要録は、次の学級担任に個々の児童生徒の学習状況を伝達する役目も持っているのだが、子供の不利益になるようなことは書かないという傾向があるため、実際にはあまり役に立たないことが多く、担任の引継の際には、別の資料(外部に公開する必要のないもの)を使うことも多い。
また、児童生徒の学習等の評価としては、指導要録とは別に通知票がある。これは学期末ごとに保護者に通知するものだが、こちらは指導要録にも増して「子供の良さを強調する」傾向がある。
通知票の場合は、保護者に気を遣うというよりも、個々の児童生徒の頑張った点を認めることにより、学習への意欲を増し、不得意な分野への波及効果をねらうという性質上、やや甘い評価になるのは当然のことである。
「あんたは、これもダメ、あれもダメ。もっと頑張らないと将来大変なことになるよ!」と教師が叱るよりも、「ここのところは素晴らしいね。来学期はこんなこともできるようになると思うよ。期待しているからね!」と励ますほうが、良い影響を与えるのは、相手が子供に限ったことではない。ピグマリオン効果というのもあるが、良さを認め長所を伸ばすというのが、教育の望ましい方向であろう。
このように、外部に公開する評価は、本人への励ましや個人情報の保護という性質なのだから、「この子供の実態を(例えばあまり学習成績が芳しくない場合など)どうやって文章に表現しようか‥‥」などと深刻に悩むことはないと考える。
こういう評価は、ある意味で「たてまえ」の評価である。
ただ、私が問題にしたいのは「ホンネ」の評価である。
人間ドックの検診結果を例にしてみよう。
血圧は正常値、γ-GTP値も問題がない、ただコレステロール値と尿酸値には大きな異常が見られるという場合、「良さを重視する」視点の指導要録や通知票方式では、「血圧もγ-GTPも素晴らしい成績です。この調子でコレステロールや尿酸値も良くなるように頑張りましょう」などと書くだろう(^^;)
これは危険である。受け取る側が勘違いするし、別の医師に診察データを引き継ぐ場合にも正しく情報を伝えているとはいえない。
やはり、「コレステロール値と尿酸値に極めて深刻な異常が見られます。すぐに精密検査を受けてください」と通知しなければならないし、自分が患者の主治医であれば、精密検査を行い、必要に応じて治療しなければならない。
医者のカルテが患者の命に関わる大事なものであるように、教師の評価も児童の学力(極論すれば子供のこれからの人生)に関わる大事なものである。
学習指導にあたっては、指導要録や通知票などの「外部を意識したタテマエの評価」ではない、自分の指導のための「ホンネの評価」をすることが必要だと思う。
「評価をどうしましょう?」ということを考えるときに、「自分の指導のための評価」と「指導要録などの評価」を混同して考えてはいけない。会議の話題にするときは、きちんと整理して考えないと混乱のもとになる。
さて、教師が学習指導を行うときの児童の評価は、基本的には「できないところ」を明確にしなければいけないだろう。
一般に学習指導の目的は、「(これまでできなかった)○○ができるようになる」ということである。
学級全体で行う学習活動の場合は、これにさらに「学級全員が」という言葉がつく。
そういうのはあまり好きでないという人もいるかもしれないが、教師の仕事の基本は、子供の力を段階的につけて(伸ばして)いくことだし、その学習活動の大半は学級という集団で行うのだから、いかに時代が変わろうと、「この段階までの力を、学級全員につける」というのが学習指導の目標となることは変わりがないことだと私は考える。
そこで必要になるのが、「個々の児童生徒に目標とする力がついたか」という評価である。すると多くの場合、「○○児と‥‥△△児には力がついていない」という結果が出るだろう。(指導のやり方によっては、一発で全ての子供に目標とする力をつけることも可能かもしれないが、ほとんどの場合は力がつかなかった子が出るだろうし、それが自然でもある)
学級の9割の子ができて、残りの1割の子ができなかった場合、重要視すべきは「○○さんは○○ができました」という評価ではなく、「△△さんは○○ができませんでした」という評価である。
「△△さんは○○ができません」という評価が出たら、それを放っておくわけにはいかない。人間ドックでコレステロール値が異常に高いなどというのと同じである。
できなければ、できるようにしなければいけないし、実は評価というのは、できなかった子供をできるようにするための資料収集が目的である。けして対外的な帳簿に記載するための資料ではない。
私は現在、学級を担任していないので音楽の授業だけを受け持っているのだが、その例がわかりやすいので挙げてみよう。
リコーダー(たて笛)である曲(仮にA曲とする)を演奏する学習をしたとする。
その演奏ができるかどうか、個別に演奏させてチェックをする。うまく演奏できれば問題はないが、演奏できない子供がいたとしよう。
そうしたら、何故、A曲が演奏できないのか探る必要がある。具体的には「1.リコーダーの奏法を全く身につけていない」「2.リコーダーの奏法は、ある程度身につけているが、数ヶ月(数年)前までの習熟技能までで留まっている」「3.リコーダーの奏法は一般的な児童と同程度まで身につけているが、A曲の演奏の練習が不足しているために演奏できない」という3つのどれにあてはまるのかチェックする必要があるだろう。
そのためには、まず、1・2ヶ月前に学習したB曲を演奏させてみる。これがちゃんと演奏できたとすれば上記の例の3にあてはまるわけだから、A曲の練習をきちんとさせるだけで対応できるわけである。
それができない場合には、教師が「ソラシド、ソファミレドと吹いてごらん」などと基本的な技能をチェックしてみて、それができないとなれば、1の場合にあてはまるわけだから、基礎の段階(小3程度)まで戻って指導をしなければならないことになるし、それができたら中間の段階でつまずいていることになるから、つまずいた段階を見つけて、そこから指導しなければならないということになる。
リコーダーの演奏という単純な例を挙げたが、他の教科等においても基本は同じである。教師が行う評価活動は、どの子ができていないかを見つけるためのものであるし、できないところを見つけたら、その原因を明確にし、然るべき対応をとらなくてはいけない。
「○○さんは○○のところはダメだけれど‥‥」という部分を無視して、「○○さんは○○はちゃんとできる」ということだけを見ていたら、きちんとした指導はできない。
教師にとって最も大切な児童生徒の評価は、(いつか開示を要求されるかもしれない)指導要録等のタテマエの評価や、(ほめることで子供の意欲向上をねらう)通知票の評価ではなく、その子の力を伸ばすための「この子は○○ができない」という評価である。
これは同時に、「私はこの子に○○の力をつけることができていない」という教師自身の評価である。
ところで、これまで書いたこととは別な視点を持つものが生まれた。
来年度から完全実施される「総合的な学習の時間」である。
このことについては、他のうんちくにも書いているし、いろいろな出版物も出ているので詳述は避けるが、総合的な学習の時間の評価については、他の「教科の学習」等とは、全く考えを別にすべきである。
既存の教科の学習では育てられなかった力を身につけさせようと生まれたのが総合的な学習の時間なのだから、学習活動も、目標も、評価も、教科の学習とは違って当然である。
ところが、これまで試行された「総合的な学習の時間」の実際を見ると、あまり教科の学習と違わないものも多いようだ。
学級(または学年)全体で同じ活動をしている例も多い。しかもその活動の計画は教師が頭をひねって考えだし、目標も学級全員同じものを設定していることがある。
そうなれば、その活動の評価も「○○ができる」というものになりかねない。
これまでの教科の学習にはないような活動内容(あるいは複数の教科の内容を組み合わせたもの)であったにしろ、学級全体で同じ活動をし、その目標も全員共通のものであったとしたら、教科の学習となんら変わりがなく、総合的な学習の時間の趣旨を生かしているものとは言えない。
例えば、「みんなで農園を見学し、栽培活動を体験する」という活動で、学習の目標が「栽培活動を通して、農家の人々の苦労がわかり、生命の大切さを身をもって理解することができる」というものでは、本来の総合的な学習の時間とは言い難い。
「秋に手作りの食事パーティーをしよう」という活動ならば、それぞれの子供が、「僕はそのときに食べる野菜を育てよう」「私はパーティーのときに使うテーブルクロスを作ろう」「僕はパーティーのテーブルマナーを調べて、みんなに教えよう」という具合に、それぞれの活動目標を設定でき、それにむけて自分なりの活動ができるだろう。
これが本来の「総合的な学習の時間」のあり方だと思う。
総合的な学習の時間について書かれた書籍の中で既に力説されているように、この時間で育てたいのは、これまでの教科の時間のような「○○ができる」という能力ではなく、「自分で課題を設定して、その解決のために工夫して取り組もうとする態度」である。
そのことがわかっているつもりでも、現実に学習活動を組織することになると、つい「教科的な発想」になってしまうことも多いようだ。
ちゃんとした「総合的な学習の時間」をやっているかどうかは、教師の評価の観点がどうなっているかということでチェックできるかもしれない。
<01.08.06>
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