「思い」でくくらない
しばらく前から学校現場では「子どもの思いを生かして」というように「思い」という言葉が使われるようになってきた。(学校以外でも使われているが)
心の中の様々な要素を全て含めて表現したいときに使われるようで、生活科が出現してから一般的に使われるようになった気がする。生活科の経営案・指導案や研究の記録にも「思い」という表現が多く見られる。
「考え」とか「願い」というのが、ある一定の心情を表すのに対して、「思い」はもっと広い意味を持ち、一つの「考え」などには限定できない、子供たちの豊かで柔らかな心の様子を表現するには最適な言葉であるように思う。
子供たちの「思い」をきちんととらえ、さらに「思い」を豊かにふくらませていくことが、私たち教師にとってはとても大切なことである。
しかし、いつまでも「思い」を「思い」のままにしておいてよいのかというと、そうではないように思う。
学級の子供たちがみんな、自分の「考え」について発表しているときに、自分の「気持ち」をしゃべる子供がいたとしたら、話し合いは成り立たない。
豊かであるけれどもぼんやりとしている「思い」を、明確な「考え」「気持ち」「願い」などにしていくことが学習活動であるし、それを方向づけてやるのが、教師の支援であろうと考える。
学習活動には、他の児童と様々な交流をしていく中で、自分自身の「思い」を、「考え」「気持ち」「願い」などの形にはっきりさせていくというねらいがあると思う。
小学校では、低学年の段階では「思い」を大きくふくらませ、中学年ではそれをはっきりしたかたちにしていくことを意識づけ、高学年で自分なりの「考え」「気持ち」「願い」にさせていくことが大切だろう。
余談になるのだが(^^;)
これまで述べた私の考え方からすれば、「子供たちの考えや思いを大切にして」という言い方は「馬や動物」と同じで、おかしな表現ということになる。
また、大人が「私にはそんな思いがある」と言うのも、あいまいな言い方でいただけない(意図的にやる場合もあるのだが)
<01.01.12>
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