西郷隆盛の肖像
職場の本棚を整理していたら見つけた「月刊健康」という10年前の小冊子。B6判で60ページ程の小さな本だが、中を見てみたらそれぞれ2ページずつの随想がたくさん載っている。文章を書いている方のほとんどが大学教授か芸術家で、センスのよい文章が多く、文章表現の勉強にもなるような本である。
その中に、当時、九州産業大学教授の小沢健志先生が「西郷隆盛の写真」という題名で書いている文章があった。
その文章によると、肖像画や銅像などで知られている西郷さんの顔は実物とは違っているということであった。その文章では「ご存じのとおり」という表現が使われていて、この事実は周知のことであるというように書かれていたのだが、お恥ずかしいことに、私はそのことをこれまで知らなかった。
知らなかったのは私だけなのかもしれないが、もしかして私のお仲間が少しはいらっしゃるかもしれないので、その方たちだけのために、この文章を書きたい(^^;)
なお、西郷隆盛の本当の姿を伝える肖像画や写真が1枚も残されていないことについては、インターネット上でいろいろ検索したら、けっこうな数のサイトが見つかったので、やはり知らないでいたのは、私だけなのかもしれない(^^;)
さて、私がずっと「西郷隆盛の写真」だと思っていたのは、下の画像である。

まるで写真のように見えるこの写実的な画像は、イタリア人の銅版画家キヨソネが描いたものだそうだ。
西郷隆盛は、1827(文政10)年に鹿児島に生まれ、1877(明治10)年、西南の役で49歳の生涯を閉じている。
キヨソネは1831年にイタリアのジェノバで生まれ、1875(明治8)年に来日して、大蔵省印刷局で銀行券や印紙のデザインおよび原版作りを行い、銅版技術の指導した。
この西郷隆盛の肖像の他にも、明治天皇、大久保利通、木戸孝允などの肖像を描いている。
この肖像が描かれたのは、1878(明治11)年。西郷隆盛が亡くなって1年後である。
当時、大蔵省の初代印刷局長であった得能良助は、明治維新前、西郷隆盛と親交が深かった人なのだそうだが、西郷の肖像が伝わらないことを遺憾とし、印刷局の雇人であるキヨソネに描かせて、西郷家に贈ったのだという。
ただ、キヨソネは実際には西郷に会ったことがなく、写真も残されていなかったので、西郷に似ていると言われる、弟の西郷從道と従弟の大山厳をモデルにして、描いたのだそうだ。
上半分が西郷從道、下半分が大山厳の顔を使った、いわゆるモンタージュであるらしい。
有名な上野の西郷さんの銅像(下左)や、鹿児島にある銅像(下右)も、上の肖像によく似ているのだが、それはこの肖像をもとにして作られたからのようだ。

上野の銅像が作られて、その除幕式のときに、出席した西郷の2番目の奥さんが、「うちん人は、あんな顔じゃなかった!」と大声で言ったということが実話として伝えられている。
これらのことから考えると、実際の西郷隆盛の顔は、だいぶ違っていたらしい。
なぜ、西郷隆盛の写真がないのかということについては、「刺客を意識して、顔を知られないようにするため」とか、「写真が嫌いだった」とか、「国家の大事の時に、自分一人がいそいそと写真を撮りにいくことを嫌った」とかの諸説があるが、その真偽はともかくとして、現実には写真も肖像画も全く残されていないようだ。
それでも、ときどき、「ついに西郷の写真が発見された!」というような話が出るそうだが、結果としては「偽物である」ということに落ち着くらしい。
何年かたつと、また同じ写真が出現したりするようだが、また事実無根のデマということで消えていくという繰り返しのようだ。
と、まあ、真実は以上の通りのようだが、このことを知らなかった私は、これまでずっと前掲の画像を西郷の写真として信じて疑わなかった。
考えてみれば、インターネットのホームページでも、同じことがあるのかもしれない(^^;)
私のホームページでも、自分の顔の画像を公開しているのだが、あれが私の本当の顔であると断言できる人は少ないだろう。
実際の私と面識がある人なら判断できるが、もしかしたら私がそれらの人たちに頼んで、あの画像が私の顔ではないということを隠しているのかもしれない(^^;)
同様に、私がホームページに載せられた写真から、「若くて美しい女性」と思っている人が、実は私と同年代の男性なのかもしれないのだ(^^;)
<00.04.23>
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