原稿なしのスピーチ



 ある学校の儀式に来賓として参加していた教育長が祝辞を拒んだという新聞記事を読んだ。



 別に儀式に反感を持っていたなどという理由ではなく、事務手続きにミスがあったために、学校側からの祝辞依頼が教育長まで届いていなかったというのがその理由で、拒んだといっても、儀式の司会者に向かって、自分の座っている来賓席から両手で×マークをつくって伝えたということであった。

 新聞記事ではインタビューに応えて「祝辞についての連絡を受けていなかったので、原稿を準備しておらず、話したいことはたくさんあったが、即興で話して誤ったことを言ってしまえば、儀式を壊すと考えた」と語っていたそうだ。



 私はこれを知って、「偉いなあ」と感心した。



 この教育長さん、私は個人的に面識はないのだが、大きな会で挨拶をするのを何度か拝聴したことがある。また書かれた文章もよく目にする。

 私などが生意気なことを言って恐縮なのだが、いつも味わい深いお話をしたり、上質な文章を書く方だなあと感心していた。



 おそらく、原稿なしで即興のお話をされても、素晴らしい挨拶になったことだとは思う。しかし、「原稿を準備しなかったので祝辞を述べなかった」というのである。とても話がじょうずなこの方にして、このような慎重な態度である。私は、この方が話し上手な秘密を見たような気がした。



 これと逆の例は、よく見かける。



 前もって祝辞等を依頼しているのに、原稿なしで演壇に立ち、即興で話をする人も多い。こういう人たちは確かに話し上手である。他の人もそう認めているし、自分でもそう思っているのであろう。



 堂々たる発声で力強くよどみなく話す人が多いので、挨拶は立派に聞こえる。しかし、よく聞いていると、内容としてはまとまりがないことが多い。同じ内容が何度かくり返されることもあり、一般にこういう人の話は冗漫で、時間が長くなる傾向があるようだ。



 原稿なしで5分以上も演説ができるなどというのは、天才だけに許された技である。歴史に名を残すような希代の雄弁家でもなければ無理なことだ。おそらくそれらの雄弁家でさえも、実は前もって話す内容を推敲しているはずである。

 我々のような凡人が、そのまねをしたところで、自分では「じょうずに話せた」と思っても、聞いている人にとっては迷惑な話である。

 演説口調の内容のない話を10分も聞かされるよりは、「本日はおめでとうございます。心よりお祝い申し上げます」という一言で終わる挨拶のほうがありがたい(^^;)



 どんなに小さな会で行う挨拶であっても、事前に原稿を書いておくというのが基本であると、私は考える。忙しくて時間がないという立場の人もいるだろうが、それでも話の構想を書いたメモぐらいは準備したほうがよい。



 このことによって、内容の堂々巡りや重複のない、すっきりした話になる。



 できれば、原稿を声に出して読んでみて、さらに暗記できれば文句なしなのだが、そこまでやらなくても、原稿を書く作業の中で、内容は自ずから頭の中に入るから、あまり原稿を見なくても話ができるようになるはずだ。仮に、あがってしまったり、ど忘れしてしまっても(私など、この頃はトシのせいか、3つ話すつもりでも1つ目を話したところで、あとの2つを忘れてしまうことが多い)原稿さえ手もとにあれば安心である。



 授業の場合も同じかもしれない。



 授業研究会での公開授業などの場合は、綿密な授業計画のもとに授業を進めることがほとんどだが、日々の指導で全ての時間にそれを行うことは無理である。

 ともすれば、十分な準備なしに(あるいは全く準備なしに)子供の前に立つこともある(私はそういうことがあった)



 それでも手もとに既製の指導計画などがあるから、なんとかなるのだが、できれば自分なりの進め方をメモにしておくほうがよい。授業の全体構造をメモするのが無理だとしたら、せめて、その授業の中心になる発問ぐらいは具体的に書いておきたい。



 あらかじめ作っておいた授業計画にとらわれず、子供の反応・発言や、教師のひらめきなどを重視して、授業を進めたいという考えもあるだろう。

 しかし、それも、もとになる計画があってこそ、柔軟な対応ができるのであって、計画もなく成り行きまかせというのでは、暴走授業になってしまう(^^;)

 45分(あるいは50分)の授業時間の中で浮かんだひらめきよりも、1日24時間の中で浮かぶひらめきのほうが、量・質ともにすぐれているはずだ。ひらめきを大事にして指導したいならば、日常的にひらめきを探していて、それを授業前の構想メモに生かすべきだろう。



 授業の達人などという人たちは、手もとに何のメモももたず、しかも子供の発言などをうまく生かした素晴らしい授業をすることがあるが、あれは既にそのような授業を何十回もやっていて、頭の中に綿密な構造図が出来上がっているのである。

 経験不足の我々が、その見た目だけをまねしても、うまくいくはずもない。これらの人は見えないところで多くの努力を積んできているのであるし、それに他の人にはないような特別な才能も持っているのである。



 話が学校教育のほうに飛んでしまったが、人前で話をすることに戻そう。



 私は正直なところ、人前で話をするのが苦手である。私がそう言うと、私の周囲の人はほとんど「嘘つけ!」とか「冗談でしょう!」と言うのだが、実は人前で話をするときには、その前にとても緊張状態になる。できれば、その場を逃げ出したいとさえ考えているのである。

 だから、話す内容について準備をしておかないと不安でしょうがない。準備を十分にして、やっと話すことができるという状態だ。(ただし、話し始めると調子に乗ってしまうのだが‥‥)

 見た目では「人前で話したがる目立ちたがり屋」というように、私のことを誤解している方も多いと思うが(^^;) 実際のところ、私は人前で話すのが恐ろしくてしょうがない。恐ろしいから準備をして、その結果、やっとまともに話すことができるのだが、考えようによっては、人前で話す恐ろしさを知っているだけ幸せだということもできよう。



 あらたまった場の挨拶に、原稿なしで立てる人は、何万人に1人の天才か、あるいは「話すことの恐ろしさ」を知らない鈍感な人なのだろう。(多くの場合、聞いている私が恥ずかしくなるような挨拶のほうが多いので、たぶん、後者なのかもしれない)



 話が冒頭に戻るが、その教育長さん、事前に祝辞の依頼を聞いていれば、おそらく素晴らしい内容の挨拶をされたに違いない。儀式に参加した人たちが、その祝辞を聞くことができなかったのは残念であった。祝辞依頼の文書が教育長さんまで届かなかったという事務手続きの手違いが悔やまれる。

<00.04.18>


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