けっこう常識になっている事柄なのだろうが、私は最近やっと真実がわかった(^^;)ので、ここに書いてみる。
下の画像は現在の勤務校で飾っている雛人形の説明書の写真である。
何の資料も見ないで雛人形を飾るというのは至難の業なので、人形を並べるときには、この写真を参考にしている。
さて内裏雛の男雛と女雛(童謡ではお内裏様とお雛様とも言っているが)の並び方は、写真の通り、向かって左が男雛、右が女雛である。
これは写真を見なくても並べられる。結婚式の新郎新婦の並び方もそうだし、天皇の即位式等の写真でも、天皇が向かって左、皇后が右になっているからだ。
こうやって上から順に並べてきて、左大臣・右大臣のところまでくると、はたと悩んでしまう。どちらが左大臣で、それをどちらに並べるのかがわからなくなってしまうのだ。
資料の写真の通りに並べれば問題はないのだが、この写真では、二人の大臣のうち、年長らしいほうが、向かって右に位置している。
昔の律令官制の最高機関である太政官の中では、左大臣が最高位であり、右大臣はそれに次ぐものとされている。
内裏雛の例を見ると、上位であるはずの男雛が向かって左に位置している。「左」の位置が上位と考えれば、男雛が位置する「向かって左」が「雛飾りにおける本来の左」ということになるだろう。
左大臣・右大臣の壇にもそれを適用すれば、向かって左にいるのが若く見えるほうの人形で、これが左大臣ということになってしまう。これが本当に左大臣なのだとすれば、新進気鋭のやり手大臣なのだろうが、ちょっと首を傾げたくなる。
雛壇の左右に飾られる花についても疑問が出てくる。
向かって左側には橘の花、右側に桜の花が飾られているが、これは実際に内裏(御所)に植えられている木を模したものだという。この名称が「左近(さこん)の桜」「右近(うこん)の橘」なのである。
これから考えると、「向かって左」が「本当の左」という見方は怪しくなってくる。やはり、「雛壇側から見て左」(向かって右)が 「本当の左」なのだろうか。
さらに調べてみたら、左大臣・右大臣について、新しい事実がわかった。やはり、向かって右の年長に見えるほうが左大臣であることがわかったのだ。
以上のことから、雛壇で「右・左」という場合、向かって「右・左」ではなく、雛壇自体から見て「右・左」が正しいということになるだろう。
そうなると不思議なのが、内裏雛の並び方である。雛壇の左側(向かって右)のほうが高い地位なのだとすれば、女雛のほうが男雛よりも上位ということになる。
現代ではそれに近いような世相になっているし(^^;) 男女に上位下位をつけることのほうがおかしいというご意見もあるだろうが、雛飾りが昔の(平安朝頃か)様子を表しているのだとすれば、上位であるべき左側に女雛が位置しているのは、やはりおかしい。
さらに調べてみたら、また面白いことがわかった。
関西地方では、男雛女雛の位置が逆になっているというのだ。つまり下のようになるわけである。
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しかも、明治時代末までは、全国的にこの並び方だったらしい。これなら、左の席(向かって右)が上位であるという、雛壇全体の並び方の原則にぴったりと合っている。
実は、向かって左の側に男雛が置かれるようになったのは、大正時代からだという。
内裏雛は天皇皇后になぞらえてあるのだそうだが、大正天皇の即位の礼の際に、天皇が向かって左、皇后が右という西洋式の並び方をしたのだそうだ。これを関東圏の人たちがいちはやく真似たので、内裏雛は今のような並びになったらしい。
内裏雛以外の雛(左大臣・右大臣等)や飾りは昔のままなので、私が疑問を抱いてしまったという次第である(^^;)
昔の様子を伝える雛飾りではなるが、内裏雛だけは現代風で国際的というわけだ(^^;)
この雛飾り、ずっと昔からあるもののように感じられるが、今のようなかたちになったのは、それほど昔のことでもないらしい。
今回の文章を書くために、いろいろ調べたことがあるので、以下に書いてみる。
- 平安時代
- 貴族の子供の遊びに使われた人形に雛(ひいな)というものがあった。
- 室町時代
- 公家の間では、若い女性に雛と雛道具を贈るならわしがあった。贈る時期は三月節供(せっく)には関係なく、雛人形も紙製であった。
- 江戸時代初期
- 三月節供に人形を飾ることが流行した。この頃に三月節供の人形を特定して雛と称するようになった。雛屏風(びょうぶ)の前に紙雛を2〜3対飾り、その前に菱餅や白酒を供える程度の簡素なものであった。
- 江戸時代中期(元禄頃)
- 布製で公家の正装の姿を作った座った形の人形が現れ流行した。これを「内裏雛」「御所雛」と呼んだ。
- 江戸時代末期
- 京都大阪などでは、段を2段にし、上段に御殿(御厨子)を飾り、その中に内裏雛、きざはし(階段)に紙雛・随身2人・官女・衛士3人・桜・橘・犬張り子等の人形を並べ、下段には、箪笥・長持・御所車・台所用具・菱餅白酒等をのせた蝶足膳などを置いた。
- 江戸では段が3段4段、場合によっては8段にもなる派手なものが多く、御殿を置かずに最上段に雛屏風を立て内裏雛を置き、下の段々には紙雛・犬張り子等の人形を置いた。随身や官女・衛士などは好まれず、五人囃子や天神・金時・弁慶・恵比寿・大黒などが置かれた。江戸末期になると、京都風の人形を取り入れ、内裏雛・官女・随身・五人囃子がきまりのようになった。
- 農村では土雛も多く飾られた。
(参考資料:平凡社「世界大百科事典」)
このように、時代や地方によって違いが大きかった雛飾りだが、大正末期の関東大震災以降、デパートなどがセット物として何等級かにわけた雛飾りを売り出すようになって、全国共通のスタイルになったということだ。
私が子供の頃、地域の財産家などでは、今のような雛飾りではなく、布で作った押し絵の雛人形を大きな座敷いっぱいに飾っていたような記憶がある。雪洞(ぼんぼり)のあかりに浮かぶその姿は幻想的で、御雛見物に行ってもらった菓子の味とともに、幼い日の思い出として私の中に残っている。
<00.03.02>