平成11年12月17日に、文部大臣が教育課程審議会に「小中高での学習評価の在り方」について諮問した。
こう書くと硬くてわかりにくいが、簡単にいうと「生きる力を評価できるテストはどうすればよいか」を考えてほしいと頼んだのである。
少し前、掲示板に「生きる力」という言葉を書いたら、教職員でない方から「それって業界用語?」と言われたが、たしかに「生きる力」というのは教育界の業界用語かもしれない(^^;)
単純に考えれば、人間誰だって生きる力を持っているわけで、それがあるから生きていられるのである。
ただ、ここでいう「生きる力」とは、1996年に中央教育審議会が答申の中で、「自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力」と定義したものであり、これからの子供に最も必要となる力と位置づけたもので、現在の教育改革の中では最重要視されているものである。
ところが、この「生きる力」を重視した学習指導を進めていく中で、いわゆる学力低下が問題になってきた。
考える力を育ててはいるのだが、従来、知識力・理解力を重視していた頃のテスト、例えば計算能力や理科社会などの知識、あるいは文章読解力などを測る問題をやらせた場合、その点数が下がってきているという傾向が出てきたのだ。
文部省では「そのような知識偏重、詰め込み型の学力観は古いものであり、今後はよりいっそう生きる力を中心とした学力観で指導を進めていきたい」というのだが、「では、生きる力はどのぐらい育ってきているの?」と突っ込まれると、それをデータ的に証明できるものが、現在では何もないのである。
そこで必要となったのが「生きる力」を判定できる評価の方法なのである。
これは、実に難しい問題だろう。
旧来の学力観であれば、漢字を書く問題とか、文章の読解問題、計算問題や、公式の応用問題などで、比較的簡単に数値化したデータが得られる。
しかし、「○○君の生きる力は75点」とか「全国の小学生の生きる力は昨年度より平均点で5点向上」というようなデータを出せる問題は作成可能なのだろうか?
生活や学習の中の様々な場面で、子供の活動状況を詳しく見ていけば、それなりの評価はできるだろうが、それでは普遍的なデータは得にくい。教師の主観も入ってしまう。
生きる力を評価する客観的な基準や、標準的な検査問題を作成するというのは、エイズやガンの治療法を開発するよりも難しいかもしれない。
しかし、だからといって、「難しい!」だけでは解決にならない。現に学校では生きる力の伸長を目指した指導を進めているのだから、「評価方法はわかりません」では無責任だろう。
その全国的な基準はどうあるべきかということについて、文部大臣が諮問したのだから、教育課程審議会でも必死に考えて、近いうちにその案が発表されることと思う。
それを待っていてもよいのだが、ここで「生きる力」評価法の私案を作ってみるのも一興かもしれない。
運良く(^^;)素晴らしい方法を考え出すことができれば、全国的に採用され、その評価法には「佐々木式標準検査法」などという名前がつくかもしれない(^^;)
私も少し考えてみた。とはいっても、もちろん、このホームページの名称の通り「面白半分」にである。もし、これが全国的に採用されるようになったら「面白半分式生きる力評価法」とでも呼んでもらいたい(^^;)
まずは、ちょっと要領のよい子が頭で考えただけで正解がわかってしまうような問題ではいけない。
例えば次のようなのはダメである。
- 問 題
- 信号のない交差点で、重い荷物を両手に持ったおばあさんが、なかなか横断できなくて困っていました。あなたならどうしますか。
- ア.荷物をもってやり、いっしょに横断する。
- イ.手を上げて車をとめてやり、横断させる。
- ウ.後から押してやる。
これだと、その子の実態と回答結果が結びつかない。日常どんな行動をしていようが、あるいは心の中でどんなことを考えていようが、回答に出るのは常識的な判断になってしまうからである。
では、常識で考えただけでは正解がどれだかわからず、その子の深層心理などに影響されるような問題ならどうだろうか。例えば次のような問題である。
- 問 題
- 次の3人の男優の中で、あなたが「渋い!」と思うのは誰ですか。
- ア.高倉 健
- イ.渡 哲也
- ウ.菅原文太
これなら、いくら常識で考えても、どれを選んだら「生きる力」があることになるか子供にはわからない。しかし、同時に出題者側でも、どれが生きる力に関係あるのかはわからないはずである(^^;)
こんな具合に「佐々木式面白半分生きる力評価法」(^^;)について悩んでいたら、6年生の女の子が、廊下ですれ違いざま、「教頭先生、この問題解ける?」と1枚の紙を渡してくれた。
次のような問題であった。
上の図のように、A君〜D君の4人の子がいます。A君とB君の間にはついたてがあり、後の子3人からはA君の姿は見えません。
4人のうち、2人は赤い帽子、2人は白い帽子をかぶっていることは知らされてありますが、それぞれ自分が何色の帽子をかぶっているかはわかりません。
また、どの子も、自分の前方しか見ることができず、後を振り返るのは許されていません。
ここで、もし、自分のかぶっている帽子の色がわかった子は、みんなから見える前の場所に進み出て、自分の帽子の色を他のみんなに見せることにします。
さあ、最初に前に進み出たのは、A君〜D君の誰でしょうか?
おそらくクイズの本かテレビ番組で見た問題なのだろうが、私はすぐには答が思いつかなかった。皆さんはいかがだろう。
正解は‥‥‥ と、すぐに答を出してもよいのだが、それでは「自力で挑戦してみる」という方に申し訳ない(^^;)
クリックしたら出てくる正解のページを作ることも考えたが、電話回線を接続したまま考えてもらうのも悪いので、私がときどき使うHPテクニック(^^;)で表示することにした。これなら、このページを表示したまま、電話回線を切断して、じっくり考えることができるだろう。
マウスのボタンを押したまま、下の空白部分をなぞって(ドラッグ)してみていただきたい。何も見えなかったはずの部分の色が反転して、文字が見えてくるはずである。
正解は「C君」である。
A君とB君は当然のことながら他の3人の姿を見ることができないのだから、自分の帽子の色を判断するのは不可能である。
D君は、B君とC君の姿を見ることはできるのだが、それぞれが白と赤の帽子をかぶっているので、自分の色を判断する根拠がない。
もちろん、C君もすぐに自分の帽子の色はわからないのだが、B君が白い帽子をかぶっていることはわかる。そこでC君は考える。「もし自分の帽子の色が白だとしたら、後にいるD君はD君自身の帽子の色を赤だとわかるはずであり、そうなればD君が帽子を見せながら前に出てくるはずだ。ところがD君は出てこない。これは自分の帽子の色が赤だからだ!」
ということで、この状況から、自分の帽子の色を推理できる可能性があるのは、C君だけなのである(^^;)
これは、なかなか良い問題だと思う。
考える筋道さえしっかりしていれば、小学校1年生でも正解を出すことができるだろうし、反対に思考のやり方がうまくなければ大学教授でも解けないだろう。
つまり、既習の学習事項には全く影響されていないのである。
しかし、事実をいろんな視点から分析し、「この場合には、こういう可能性がある」「この場合はこういうことは考えられない」というように、論理的に思考していく力は、まさにこれからの教育が目指しているものであり、この問題を解くのに必要なのはその力だからである。
生きる力を判定するのに、ペーパーテストを使うのならば、このような「教科で覚え込んだ知識の有無に関係しない」、しかも「自分の力で工夫して考えていくことのできる」問題を作らなければならないだろう。
この問題1つだけで「面白半分式生きる力評価法」(^^;)が完成したなどとは言わないが、1つの提案になるのではないだろうか。
もっとも、この問題にも難点はある。
ある程度の年数、毎年、標準的なテストを実施してデータを求めるとすれば、それぞれの年に実施する問題の難易度のバランスがとれていなければならない。単純な算数の問題であれば、ちょっと数値を変えたり、文章表現を変更したりするだけで同程度の問題を作ることができるのだが、上のような問題を毎年作っていくことになると大変だろう。(「頭の体操」などのクイズ本から探したほうがよいかもしれない‥‥)
例によって余談になるが‥‥
「生きる力」を評価する問題が完成して、それで全国規模の調査を実施し、結果が年々向上したとしても、旧来の知識・技能型学力がどんどん低下していくのでは、やはりマズイと思う。
そういう計算力とか文字力とかは塾で勉強して‥‥などという意見もあるようだが、世の中の誰もが子供を塾にやれる経済的余裕・時間的余裕があるわけではない。また塾の先生にしても、訪れる全部の子に基礎的学力をつけることを期待されても大変だろう。
生きる力の育成ももちろん大切なのだが(事実、現在の子供たちには低下が見られるので)、学校に求められるものの大きな割合をしめるのは、やはり読み書き計算、社会や科学の常識などの基礎的な学力・能力である。それを軽視して、楽しいだけの体験活動やお祭りイベント等に重点を置き過ぎるようになれば、場合によっては学校に対する保護者からの信頼を失ってしまうことにもなりかねないと思うのだが‥‥‥
<99.12.26>