旅の僧を泊められるか



 昔話などには、よく旅のお坊さんを家に泊める話がある。



 たいていは寒い冬の夜、疲れ果て乞食のようなみすぼらしいかっこうをした旅の僧が「一夜の宿を貸してはくださらんか」と訪ねてくるのだが、実はその僧が非常な高僧であったり、時の執権であったりという話が多い。






 ほとんどの家では、僧の貧しい身なりを見て、「あいにく、うちでは泊めることができん。他の家に行ってくだされ」ということになり、最後に訪れたいかにも貧しそうな家で手厚いもてなしにあう、というのが話の基本的なパターンである。



 僧に暖をとってもらうために大事にしていた盆栽を燃やしたり(鉢の木)、僧に食べさせるため隣家から大根を盗んだり(あとかくしの雪)というように、自分を犠牲にするようなもてなしをするのだが、やがて僧(実は身分の高い人)は、そのもてなしに応えて、領地を与えたり(鉢の木)、盗みに入った足跡を覆い隠す雪を降らせるという奇跡を起こしたりする(あとかくしの雪)という結末になる。



 「親切」「思いやり」「慈悲」「誠実」など、道徳の資料になりそうな感動的な話である。



 では、今、私の家にみすぼらしい旅の僧が「一晩泊めてください」と訪ねてきたら、私はどうするだろうか?

 おそらく「すいませんが、今、家に病人がいるもので」とか「あいにく、これから出かける予定があって」とか、いいかげんな理由をつけて、「他の家に行ってもらえませんか」と断るような気がする。

 せいぜい「うちには泊めることができませんが、これで近くの旅館にでもお泊まりください」と言って、お金を渡すぐらいだろう。



 どちらにしても、人道的対応というよりは、手のいい「やっかいばらい」の対応である。

 断定はできないが、多くの人は同じような対応をするのではなかろうか。



 かくして、旅の僧は、どこの家にも泊めてもらえない、という結果になるのだろうが、その理由はなぜだろうか。

 次のように3つほど考えてみた。



1.僧が昔ほど大事にされていない

 仏教が昔ほど生活の中で大きな比重を占めていないとか、日本人全体が無宗教化しているとかいうこともあるだろうが、僧そのものが徳の高い人物として尊敬されるというよりも、単なる職業としてとらえられるようになったということもあるだろう。
 しかし、これは大きな理由とは思われない。例えば仏教の僧ではなくキリスト教の牧師が訪ねて来ようと、無銭旅行中の若者が訪ねて来ようと泊めない家が多いはずだからだ。


2.慈悲心が薄くなった

 たしかにこれはあるかもしれない。しかし、家を訪ねて来た人がどんなに可哀想に思えても、それだけで家に泊めるという行動にはなかなか踏みきれない。せいぜい前述のようにお金をあげて帰ってもらうということになってしまう。お金をあげることも慈悲心の一つではあるから、慈悲心がなくなったとも言いきれない。まだ他に大きな理由があるはずだ。


3.世の中が物騒になった

 私の場合は、これがいちばんの理由である。家を訪ねて来た人が、悪い人には見えず、本当に困っているように見えたとしても、見ず知らずの人を100%信用することができないのだ。
 悪い方に考えれば、みんなが寝静まった夜中に、殺人や窃盗をはたらかないとも限らない。実際にそのような事件などもよく見聞きする。
 家族の安全を守るということを考えれば、簡単に知らない人を家に泊めるということはできないことである。




 ある学校の近くを通ったら「あいさつも 知らない人には 気をつけて」という標語の看板が掲げてあった。

 そこは、その学校の児童の通学路なのだが、大きな公園の中を通る山道で、ほとんど人通りのない場所である。

 たしかに変質者などが待ち伏せていたら危険な場所である。

 本来は「あいさつは どんな人にも 元気よく」と指導しなければいけないのだが、誰も通らないような山道で、怪しい人に「こんにちは!」などと声をかけたらかえって危険かもしれない。



 冒頭に昔話の例をあげたが、これもよく見てみれば、ほとんどの家では「うちには泊められません」と断っているのだから、今も昔もそんなに変わらないのかもしれない。

 となれば、僧を泊めてやった昔話の主人公は、「もしかしたら自分に危害を加えられるかもしれないが、それでもかまわない。自分はこの僧を可哀想に思ったのだから、それを信じて泊めてあげよう」と、重大な決意をして行動したとも考えられる。

 そうなると、慈悲の心とは、生半可なものではなく、自分の命をかけても相手を信じてやるという、とても難しいものなのだろう。凡人の私には、ちょっとできそうもない。



 昔、仏教について書いた本を読んだことがあるが、それによると、僧が街に出てお金やお米などのお布施を集めて歩く「托鉢」は、僧にとっての修行であると同時に、街の人に「僧に布施を供える」ということで徳をつませるという救済の活動なのだそうで、単なる物乞いとは違うのだという。

 一夜の宿を借りたいという旅の僧を泊めてあげられないだろう私は、まだまだ慈悲の心が薄く、しかもそれを物騒な世相のせいにしてしまうあたりは、徳が低いということになるのだろう。

<99.09.11>




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