酔っぱらうことがたまにある。
若くもないのに若いつもりで飲んでしまうからで、翌日には深く反省するのだが、飲んでしまうとつい調子に乗ってしまう。
若い頃と違うのは、飲んでいるときのことを覚えていないということがたまにあることだ。
最後の店を出たところまでは覚えているのだが、その後どうやって帰ったのかさだかでないこともある。
しかし、その間、寝ていたのかというとそうでもない。ちゃんとタクシーをとめて、自宅の場所を指示し、料金も精算して、帰宅、入浴、就寝している。
我ながら不思議なことである(^^;) ときとしては最後の方の店でしゃべったことなども覚えていないこともある。
ところで、こういう自分でも覚えていないような酩酊状態のときに、事件を起こしたりしたらどうなるのだろうか?
タクシーに乗るときに誰かと口論になり、傷害事件を起こすなどということも考えられないわけではない。酔うと自分でも理性が欠けていくのがわかるから(そうでなければ何軒もハシゴするなどということもない)押さえがきかなくなって、とんでもないことをしでかすという可能性がないとはいえないだろう。
仮にそうなったとして、まず職を失うことは間違いがない。公務員であるから犯罪者になれば自動的に資格を失うし、信用失墜行為によって懲戒免職である。
ただ、刑法上あるいは民法上はどうなるのであろうか。極度の酩酊状態にあったときの犯罪は、「心神喪失状態」あるいは「心神耗弱状態」ということで無罪もしくは減刑ということはないのだろうか。
刑法は次のようになっている。
第39条:心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス 心神耗弱者ノ行為ハ某刑ヲ軽減ス
第40条:いん唖者ノ行為ハ之ヲ罰セス又ハ某刑ヲ減刑ス
第41条:14歳ニ満タサル者ノ行為ハ某刑ヲ罰セス
刑法39条については、この春に森田芳光監督(『失楽園』『家族ゲーム』『ハル』などの)が「39」というタイトルで映画(主演:鈴木京香)にし、話題になったようだ。私自身はその映画を見ていないので、映画についてのコメントはできないのだが、心神喪失者の犯罪の無罪判定についてがテーマのようだ。
最近では、全日空機ハイジャック機長刺殺事件で、容疑者の責任能力の有無が話題になり、起訴前の「簡易鑑定」により、「責任能力あり」との判定が出て、実名や顔写真が公開されたことが記憶に新しい。
これも「精神鑑定」のひとつである。
法律関係者が事件に関して法律以外の専門家の援助を求める作業を「鑑定」という。たとえば、法医学的な鑑定などがある。この鑑定の中で、精神医学や心理学に関わるものを 「精神鑑定」と呼んでいる。精神鑑定をする鑑定人の多くは、精神科医だが、心理学者や 家裁の調査官が選ばれることもある。
日本で最も多い精神鑑定は、取り調べの段階で、検察官から委嘱される「起訴前鑑定」である。これには、1回だけの面接で結論を出す「簡易鑑定」と、2〜3ヶ月をかける「本鑑定」とがある。
精神鑑定の結果、責任能力を問えないと検察官が判断すれば、起訴されないことになる。
昭和57年に、24人の死者を出した日航機東京湾墜落事件では、意図的に機を墜落するように操縦したK機長に精神的な異常が認められるということで不起訴になったはずだ。
起訴後に裁判所の命令で行われる精神鑑定は「司法精神鑑定」という。これに対して、弁護人、検察官などの一方が、自分の主張を立証するために、個別に専門家に意見を求め ることがある。鑑定人は、「鑑定意見書」などと称する書類を作成することもある。
精神鑑定の結果を一方が不満として再鑑定を申請して認められれば、何年間にもわたって、精神鑑定が繰り返されることもある。
幼女連続殺人事件の宮崎被告については、鑑定人によって意見が分かれている。これによって、被告は死刑になることもあれば無罪になる可能性もあるのだ。
この39条については、よく論議になる。殺人事件で容疑者に精神的な異常が見られるたびに、「異常者でも厳罰に処さなければ犠牲者が浮かばれない」などという論議が起きるのだが、ここでは単に感情的な判断にならないように、いろいろ調べたことをまとめてみる。
参考とした資料は、主に、「精神科学」 日本医事新報社(1991)(北里大学精神科編集)によるものである。
まず第39条は精神障害者の責任能力に関する規定で、心神喪失は責任無能力、心身耗弱は限定責任能力に相当する物と考えられるのだそうだ。
これらの用語は法律上の概念であるが、それらについて規定された条文はない。現在では、一般に、昭和6年の大審院に従い、心神喪失は「精神の障害により事物の理非善悪を弁識する能力なく、またはこの弁識にしたがって行動する能力のない状態」を指し、心神耗弱は「精神障害の程度が心神喪失にまで達してないまでも、その能力は著しく減退した状態」を指すと解釈されている。したがって精神鑑定を行う際に必要となるのは、「精神障害の有無」と「理非善悪を弁識し、またはそれに従って行為する能力の有無」の2点である。しかし、精神現象には連続性や移行性があり、必ずしも心神喪失と心神耗弱を区別することは容易ではなく、精神医学者と法律家の意見のくい違いが生ずる場合もあり、鑑定書が裁判官によって取り上げられないこともときに見られる。いずれにせよ、責任能力の有無の判断は裁判官によって下されるものであり、精神医学者の役割は精神鑑定により裁判官の判断に資料を提供することにある。
そこで問題になるのが、その対象となる具体的な精神障害なのだが、次のようにまとめられていた。
- 1)知能障害
- 白痴や重傷の痴愚、進行麻痺や老年痴呆などにより高度の痴呆をきたしている場合は心神喪失と考えられるが、精神遅滞でも痴愚や軽愚の場合は、その知能程度と犯行の性質により判断される。
- 2)内因性精神病
- 現在、精神分裂症、あるいは躁うつ病と診断された場合、一般に無責任能力と判断される。しかし、異常体験に直接結びつけられない行為、精神分裂症の寛解例や軽い欠陥状態、パラノイア、繰うつ病の軽症例では責任能力をある程度認めるべきだと言う意見もある。
- 3)意識障害
- てんかんのもうろう状態では、つねに責任無能力が認められる。また症状精神病の一部も責任無能力とみなされる。
- 4)中毒精神病
- このなかでしばしば問題になるのはアルコ−ルによる酩酊である。酩酊は他の精神障害と異なり、酒飲するかどうかは正常な状態の自己の意志によって決定されるので、いわゆる原因において自由な行為であり、飲酒時の犯行は責任能力があるとされる。病的酩酊の場合は、心神喪失ないしは心身耗弱とされることもありうるが、病的酩酊が予測できたのに飲酒したとすると、責任能力を有するとも考えられる。
- 5)神経症、精神病質
- 一般には責任能力があるとされるが、心因性のもうろう状態は意識障害と考えられるので、多少とも責任能力を考慮すべきだとする意見がある。
最初に例としてあげた「飲酒による酩酊状態」は、4番の「中毒精神病」にあたるのだろうが、飲酒する以前が正常な精神状態の人間であれば、飲む・飲まないは自分の判断によるものなのだから、犯行に至った場合は「責任能力あり」と見なされるのが普通のようだ。私の場合「病的酩酊」ということでもないようなので、飲んで悪いことをし、「記憶にありません」と言ってもすむわけではなさそうだ。
シンナー中毒の場合なども、これに類すると考えられるので、無罪ということにはならないのだろうが、前に無罪になった事件があったような気がするのは、私の記憶違いだろうか。
仮に自分の家族などが、心神喪失状態の犯人の犠牲になった場合、犯人が無罪になったのでは気が済まないという気持ちはよくわかる。
おそらく、法で裁けないのなら、非合法的手段でも復讐したいというのが、親族の偽らざる気持ちだろう。
しかし、法律は、それを許さない。忠臣蔵の頃から「仇討ち」的発想は何の生産性もないものとして否定されているのである。
今の法律の中心になっているのは、「更正をめざす」という考え方であると思う。
仮に自分が罪を犯してしまったとして、すぐに「お前は悪いヤツだ!死刑だ!!」と言われるよりは、「これこれの年数、懲役に服して反省し、真人間になって社会に復帰しなさい」と言われたほうが、ありがたいだろう。ある意味で、それは自分を救ってくれることになるからだ。
中には、「自分はとりかえしのつかない悪いことをしてしまった。死をもって償いたい」と考える人間もいるかもしれないが、そうだとすれば、その人間は、ほとんど更正していると言っていいだろう。おおかたの犯人は「償いたい」という気持ちにはなっていない。「償いたい」という気持ちが持てるようにすることが、更正させるということだと考えてもいいのではないだろうか。
罪を犯した場合、その罪に対して「○○年間懲役」という罰を与えるというのではなく、「これだけの罪を犯した人間を更正・矯正させるには○○年の懲役が必要である」というのが、現代の刑法の考え方であるという。そうなると「死をもって矯正させる」ということはあり得ないのだから、現代刑法の考え方をつきつめると、「死刑」とか「無期懲役」ということはないことになるだろう。
刑法には「犯罪行為に対する社会防衛的な見地から規定されたもの」という側面もある。
「悪いことをしたら、こんなに厳しい罰を与えられるのだから、絶対に悪いことをしてはいけない」と思わせるという役割である。
しかし、小学校低学年程度の子供では、それをきちんと意識することはできないだろう。
それと同じ程度の意識しかもてない状態の人間を「心神喪失状態」とし、それらの人間の犯行を罰しない、あるいは軽減するという、刑法39条については、理解できないわけではない。
例えば、幼稚園児が殺人を犯した場合、その子供を死刑にするというわけにはいかないだろうし、その子がこのあと人間として正常に生活していけるように育てていかなければならないのは、その子の親のみならず、社会全体の責任でもあるからだ。
ただ、精神的に異常な人間によって殺傷が行われた場合、被害者やその家族に対して、「狂犬に襲われた事故のようなものですから」では、納得してもらうことはできないだろう。
それが本当に狂犬なのであれば、その狂犬は保健所で処分されてしまう。でも人間の場合は、そうもいかない。
精神的に異常な人間に対しても、健常者と同じ処罰をすべきであるという考え方もよく聞く。
全く社会生活を営むことができないほどの異常をもった人間(道路も歩けないし、買い物もできない)であれば、罰を免除あるいは軽減するということもあり得るかもしれない。ただ、そうなれば、そういう人間が犯行に至るまで放置しておいた家族や社会の責任は免れないだろう。
そうでなくて、普段は普通の社会生活を営んでいるような人間であれば、それを心神喪失の異常者とするのは、どんなものであろうか。考えようによっては、凶悪犯罪を起こしてしまう人間は全て精神的に異常であると言えないこともない。しかし、そうだとすれば刑法自体が存在価値を失ってしまう。
精神分裂だの躁鬱気質だのとは言っても、確信犯的に犯行を行う人間については、刑を免除したり軽減したりすべきではないというのも、間違った考え方ではないように思う。
神戸の連続児童殺傷事件の犯人「A少年」の両親の手記を読んだ。(これは41条関連だが)
この事件では、少年法のあり方などについてもずいぶんと論議を呼んだし、殺された子供たちの親の気持ちになってみれば、どんな厳罰でも足りないという気持ちになったのだが、あらためて犯人の親の気持ちになって考えてみると、また複雑な心境である。
「罪を憎んで人を憎まず」という考え方と、「犯人を簡単に許してしまったら、被害者の気持ちはどうなるの」という考え方の間に立って、私の気持ちは、いつも揺れる。
余談めいたことになるが、民法上では「心神喪失」状態に対して、刑法よりも厳しいとらえ方をしている。
つまり、刑法上では、犯行時における心神喪失状態の有無が論点になるが、民法上では、犯行時のみならず日常継続的に心神喪失状態が認められなければ、損害賠償等の責任を負わなければならないのである。
また逆に、売買行為などにおいて、責任能力のない人間が契約を行ったりして不利益を被った場合は、「無能力者」として、民法上の責任を負わなくてもよいことになっている。しかし、この場合、家庭裁判所が「無能力者」の宣告を下しているというのが条件となっている。
私も、その宣告を下されないよう、気をつけなければならない(^^;)
P.S.タイトルの「沙汰でないと」は「サタデーナイト」の駄洒落です‥‥
<99.08.22>