しあわせと学力



「先生(しぇんしぇ)、あんまり成績良ぐすれば、息子、家さ帰って来ねぐなるがら、勉強は適当でえぇど」

 さすがに最近は少なくなったらしいが、昔は子供の保護者から、こう言われた教師も多かったという。

ふるさとの山「鳥海山」


 私の住む県の基本的な産業は農業。田圃の仕事をする後継者がいないのでは、家業は絶えてしまう。勉強をやりすぎて、子供たちがみんな都会に出て行ってしまったのでは農業は成り立たない。そういう気持ちをこめての発言だったのだろう。



 そういう背景があってか、我が秋田県の学力はずっと低かった。平成11年度大学入学者を対象にした「大学入試センター試験」では、全国で10位台、東北では1位と、近年にない好成績を収めたのだが、数年前までは40位台を低迷していた。今回の全国10位台というのは、かなりの躍進ということになるが、これはあくまでもセンター試験を受けた生徒を対象にした結果であり、高校生全てを対象にして調べてみると、依然、成績は全国の下位にいるという。



 この実態を受けて、我が県の一番の教育課題は「学力向上」である。そのこと自体には、私は全く異存はない。子供たちの学力を向上させるのは教師のつとめであり、「学力は低くてもかまわない」などと言うのは教師としての怠惰であることにほかならない。

 しかし、なんのための学力向上なのかということは、きちんと押さえておく必要があるだろう。

 「うちの地域は、他と比較して点数がぐんと低いので恥ずかしい。せめて全国の平均的なレベルまでは向上させたい」というのであれば、少し考え直してほしい。



 学力を向上させたいのは、それがその子の幸せに結びつくからである。



 例えば、星を見るとき、星座や星の明るさ・距離などを知って、空を見上げるのと、何も知らないのでは見え方が違ってくるはずだ。

 あるいは森を見るとき、私のように植物の知識が皆無に近い人間が見るのと、豊富な知識がある人が見るのとでは、同じ森でも全く別のものに見えるのであろう。

 文学にしても、歴史にしても同じである。

 これまで人間が長い時間をかけて積み上げてきた知識を、自分のものとして身につけることによって、長い生命のつながりの最先端の場所で、様々なものを見渡すことができるようになるのである。



 知識についてだけ述べたが、頭の働きについても同じことである。

 鍛え上げた筋肉を持つ人が、より運動の楽しみを味わうことができるように、小気味よく働く頭を持っていてこそ、快適な生活を送ることができる。

 私のように近眼のものが眼鏡を外すとまわりの様子をはっきり見ることができないように、ぼんやりともやがかかったような、動きの鈍い頭脳では、日常の生活を送ることも大変である。



 勉強ができるようになれば幸せになれるというのは、良い学校に入れるからとか、良い仕事について高収入を得ることができるからというのではなく、より快適な人間らしい生活を楽しむことができるようになるから、というのが正しい見方であると思う。



 ところで、幸せというのは、勉強ができるようになることだけなのだろうか?

 それとは別な考え方もあるように思う。

 私は、生まれてからこれまで、ずっと生まれた場所に住んでいる。都会で暮らしたことが一度もない。それが幸せかどうかは意見の分かれるところであるが、私自身は、このふるさとが大好きである。たまに都会に出かけると、その華やかさや便利さに少しは心を動かされるが、数日過ごすと息がつまりそうになり、田舎に帰るとほっとする。

 だから、生まれた場所で働くことができて、多少なりともふるさとのために貢献しているということが、私の幸せであると思っている。



 慣れ親しんだ環境の中で、家族といっしょに暮らすということも、幸せのひとつのかたちであろう。



 ところが、田舎では、へたに(語弊がある表現だが)大学などを出ると、ふるさとで暮らすことができないということがよくある。

 私のように学校の教師になったり、地方自治体の職員にでもなれば、なんとか田舎で暮らすこともできるが、その他には大学で学んだことを生かして働けるような職場がないのである。

 専門の勉強をしたことなどを全て捨てて、自分の家の田圃でもつくっていれば、暮らせないこともないだろうが、それでは、学んできたことを生かせない。



 私の高校時代の同級生には、いわゆる一流大学に進学し、優秀な学業成績をおさめた人も多いのだが、残念なことに(残念だと思うのは私だけかもしれないが)、ほとんどの人がふるさとを離れて生活している。

 あまり、ふるさとにこだわるのも良くないかもしれないし、世界に羽ばたくような優秀な人材を育てるのも、田舎の教育の1つの使命なのかもしれないが、優秀であればあるほど、自分が生まれたところには住めないというのも、悲しいことである。



 我が秋田県の、もう一つの教育課題が「ふるさと教育」である。細かいことは省略するが、これはこれで素晴らしい取り組みである。

 ただ、どうもこの「ふるさと教育」と「学力向上」が、最終的な部分で結びつかないように感じる。

 「ふるさとを愛し、心豊かに育った子供」たちの学力を向上させることによって、最後にはふるさとを離れなければいけない人間を育ててしまうという結果になってしまうのだ。

 そうなると、冒頭に書いた「勉強もほどほどでいい」ということになってしまいそうだ。



 学力がなかなか向上しないのも、ここらへんに問題があるようにも思う。

 学力が遺伝するとは言い切れないが、若干、その要素はあるだろう。それは血統的な遺伝というよりは、親の学問に対する態度が子供に影響すると行ってもいいかもしれない。

 親が、日常的に読書をしたり、芸術に親しんだり、国際情勢について関心を持ったり、あるいはコンピュータなどの先進技術に興味を持ったりして生活している家庭に育つ子供と、適当にどうでもよく生活している親(実際には生活のために疲れていて、そのように見えるだけで、どうでもよくとは言い切れないのかもしれないが)の家庭に育つ子供とでは、学力にも差が出るように思える。

 そして、我が県では、前者のような人が、どんどん県外に流出しているように思えるのだ。こう書くと、県内に残っている人たちが(私も含めて)まるで残りカスのように受け取られるかもしれないが、そんなことはない。(幸せについての考え方が違うだけである)

 しかし、そうはいっても、知的レベルの上澄みの層が、県外に流出していることは否定できない。



 県の教育のあり方を考えるとき、まず、「幸せとは何か」ということをきちんとしなければならないと思う。場当たり的に、試験の点数を上げるということだけでは解決にならない。

 つきつめて考えれば、自分の県をどのようにするかということである。都会に優秀な人材を送り出すためだけに、学力を向上させるのだとしたら、あまりにも淋しい。

 本当は、高い学力を身につけた子供たちが、自分の生まれたところで暮らしたいと望んだときに、それを受け入れるだけの力がある県にならなくてはならない。基本的な県の力を高めるような行政の力が必要である。それを放っておいて、目先の点数の向上だけを教育界に強いるだけでは、結果的に優秀な子供たちを県外に追いやることになり、最終的には学力も県の力も落ちていくという結果になってしまう。

 県そのものの力を向上させていけば、学力向上などは、ひとりでについてくることである。国の官庁等から出向して、県の仕事をしている、いわゆるエリートの人たちが、ほとんど単身赴任で、自分の子供を連れてこないような状況では、まだ本当の県の力はついているとは言えないだろう。



 と、ここまでで、論の流れとしては終わりにしてよいのだが、ついでなので、私なりに我が県はどうあればよいかを書いてみる。

 普通に考えれば、大学卒業者をたくさん受け入れることのできるような企業の誘致などというのが、県の力を増すための手だてなのだろうが、そんなことは、どこの県でも考えている。

 気候的にも厳しい冬があり、交通の便も悪い我が県に進出してこようという企業は少ないだろう。仮にあったとしても、それは安い労働力を期待したものであり、前述のような大卒の人間が多数働くような職場にはなりにくい。

 無理して東京の真似をする必要はないのである。

 我が県の売り物といえば、恵まれた自然環境である。その中でゆっくりと暮らしながら知的な生産活動を行うには最適な土地である。交通網の整備はほどほどでよいから、通信網の整備を日本一にしてみたらどうだろうか。

 インターネットもこのぐらい普及してきている。やろうと思えば全ての情報のやりとりは在宅のまま可能である。会議などもテレビ電話システムでできるようになっている。

 自然に親しみながら知的生産をする人々のビレッジのようなものを整備し、常時接続可能な光ファイバー等で結ぶというようなことは、山を切り崩して道路をつくるよりはたやすいことである。

 そんなハイテク県構想などというのを全国に先駆けてやってみるのもどうだろうか?



 ついでだから、アイディアをもう一つ‥‥‥

 人口が数千人の小さな町が多い我が県。その中に20人前後の町会議員がいるのも、考えてみれば不合理である。当然、予算の関係で、議員1人あたりの報酬は少なくなり、議員収入だけでは生活が成り立たない。

 これでは、仕事を退職した老人や、時間が自由になる職業に就いている人しか議員にはなれない。若い意欲のある人が議員になることは無理なのである。

 そこで、全県の市町村を大規模に統合し、県内を5つか6つの市にしてしまう。これだと県会議員なみの人材を確保できるだろう。そうなるとそれぞれの議員が遠距離になるので、議会を開くのが大変になるが、そこは前述のようにインターネットとテレビ会議システムで対応する。

 このぐらい、徹底してみれば、我が県も「学力の低い県」などではなく、「日本の最高頭脳」などと言われるようになると思うのだが‥‥‥



 長くなってしまいました。今回の文章は、「うんちく」という感じではなかったので、「オラホだけかな」に入れようかとも思ったのですが、それもちょっと違うようなので、とりあえずこちらに収録してみました。

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