私がまだ学級担任をしていた頃、授業で詩を視写させることがあった。(視写というのは文章などを見てノートなどに書き写すことである)
手本となる文章は教科書に載っているものであったり、印刷物にして渡したものであったりもしたが、私が黒板にそれを書くこともあった。
教師も子供も黙々と書き続けるのは、なかなかよいものである。
この活動の目的は、そのときどきによっていろいろである。文章そのものの解釈を深めるためにやるときもあれば、すぐれた表現をじっくりと味わうためにやることもある。あるいは子供に何かのテーマについて深く考えさせたいというときにやることもあった。
いずれの場合も、あまりしゃべらずに、ただ「書く」ということにだけ気持ちを集中しながら行うのがよいようだ。
そんなときに、私がよく扱った詩がある。濱口國雄の「便所掃除」という詩である。
たいていの学校の図書室にあるはずだが、たまにこの詩が載った本を置いていないところもある。実は現任校もそうだ。自分で暗唱していたり、資料を保存していたりすればよいのだが、そうでないと、いざこの詩を使いたいと思ったときに困ってしまう。
今回も、私のホームページの掲示板「千客万来ルーム」で、この詩のことを話題にしたとき、資料を見つけることができないで困った。インターネットで検索したら2つほど見つかったが、そのうちの1つは、自分で暗唱していたものを書いたらしく間違いがひどかった。本文に忠実とおもわれるのが、こちらである。(これも、あきらかに1文字は間違っていたので、下に転載したものでは修正しておいた)
余談になるが、ずっと前にテレビの番組で、この詩のことが話題になったのを見たような記憶がある。作家の高史明氏の子息で12歳で自殺した岡真史さん(「ぼくは十二歳」という本がある)が好んで愛唱していたのがこの詩だったというような内容だったと思う。私の記憶違いかもしれないが‥‥。
いずれ、今後、私がこの詩を使いたいと思ったときに、すぐに引き出すことができるようにと、自分のホームページの中に入れておくようにしたのが、下の部分である。私も使うことがあると思うが、こちらをご覧の皆さんも、何かの機会に必要となったらご利用いただきたい。
濱 口 國 雄 扉をあけます 頭のしんまでくさくなります まともに見ることが出来ません 神経までしびれる悲しいよごしかたです 澄んだ夜明けの空気もくさくします 掃除がいっぺんにいやになります むかつくようなババ糞がかけてあります どうして落着いてしてくれないのでしょう けつの穴でも曲がっているのでしょう それともよっぽどあわてたのでしょう おこったところで美しくなりません 美しくするのが僕らの務めです 美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます 静かに水を流します ババ糞におそるおそる箒をあてます ポトン ポトン 便壺に落ちます ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します 落とすたびに糞がはね上がって弱ります かわいた糞はなかなかとれません たわしに砂をつけます 手を突き入れて磨きます 汚水が顔にかかります くちびるにもつきます そんな事にかまっていられません ゴリゴリ美しくするのが目的です その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします 大きな性器も落とします 朝風が壺から顔をなぜ上げます 心も糞になれて来ます 水を流します 心に しみた臭みを流すほど 流します 雑巾でふきます キンカクシのうらまで丁寧にふきます 社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます もう一度水をかけます 雑巾で仕上げをいたします クレゾール液をまきます 白い乳液から新鮮な一瞬が流れます 静かな うれしい気持ちですわってみます 朝の光が便器に反射します クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします 便所を美しくする娘は 美しい子供をうむ といった母を思い出します 僕は男です 美しい妻に会えるかも知れません |