時代の文学ほど将来に脚注
この頃は小説を読むことも少なくなった私だが、大学生頃まではかなり読んだ。
純文学もいいのだが、もう少し軽いものも好きだった。そんな中に、小林信彦の「オヨヨ大統領シリーズ」がある。
昭和40年代後半から50年代はじめにかけて発表されたこのシリーズは、ストーリーの面白さもさることながら、作者小林信彦の多岐にわたる知識の豊富さが文章の端々に滲み出ていて、そのセンスの良さも私がこのシリーズを好きになった大きな理由である。こういう「ちょっとした(しかも深い)うんちく物」という路線は、最近だと漫画の「こちら亀有公園前派出所」などにも見受けられる(毎回ではないが)
例えば、日活の「渡り鳥シリーズ」についてのうんちくが語られている部分などがある(どちらかというと、あまりストーリーの展開に関係のないような、登場人物どうしの会話に出てきたりするのだが‥‥)
あるいは、コント55号をあきらかに意識したような登場人物が出てきたりする。
こういう部分は、私の年代(あるいはもう少し上の年代)には、とても受ける。(小林信彦は昭和7年の生まれ)
ところが、これを今の若い人が読んだら、さっぱりわからないだろうと思う。私が20歳前後の頃に読んで、いちばん笑った部分が、今の若い人にとっては、いちばん意味不明な部分になってしまっているのだ。
どうしても、それを理解させるためには、「この作品が発表された当時は、これこれこういうようなことが大変に流行しており、こういうわけで面白いのです‥」というような脚注をつけないといけないということになる。
作品が書かれた時代をより多く映し出した作品ほど、時代が変われば理解されなくなってしまうという傾向があるだろう。
このシリーズの最高傑作(だと私は思うのだが)の「大統領の晩餐」の解説には、奇しくも「この作品には、時代とともに古びやすい要素がぎっしりと詰めこまれています」と書かれている。
実際に、発表後30年近くを経たこのシリーズには、私のような年代以外の人には理解できない部分がたくさん出てきている。
しかし、だからといって、この作品の価値が下がるということはない。いわゆる古典と呼ばれる「源氏物語」や「枕草子」でも、脚注で「当時は○○する習慣があり‥」という説明がないとわからない部分がたくさんある。だが、それによって、これらの作品の文学的価値が失われるということもないし、かえって当時の人々の生き生きとした生活の様子を知ることもできるのである。
哲学書のように、時代に影響されない部分で人間の本質を語るものもあり、それはそれで、「いつ読んでも新鮮」ということもあるが、時代とともに古びてしまうような「今」を扱いながら、そこで生々しい人間の本質を表現する文学もあると思う。
「源氏物語」も「枕草子」も、その時代においては、「今」を扱った作品だったと思う。だからこそ多くの人から親しまれたのだろう。
「今」(アップトゥデイト)が、やがては「古典」(クラシック)になるのだろう。
「温故知新」(ふるきをたずねて新しきを知る)ということも大切である。しかし、数年後には脚注なしでは理解できなくなるような最先端の「今」の作品にも意識的に接しておくことは、もっと大切であると思う。
「バッグの中でケータイ(注1)が鳴った」などという今の小説も、10年も経てば、「(注1)当時はまだ一家に1台という有線形式の電話が一般的で、現在のような電話を携帯電話と呼び、俗称では『ケータイ』と言った。しかも現在のように耳骨に埋め込むかたちではなく、手で握る程度の大きさがあり重かったので、バッグ等に入れて持ち運んだ」というような脚注がないと、読者には理解してもらえないかもしれない(^^;)
オマケ
ちょっと前だと大いに笑えたけど、あと数年経ったら、「何が面白いの?」と言われそうな(今のところ面白くて、ネット上では人気のある)動画GIFは、こちらです。
(少々、サイズが大きいので、読み込みに時間がかかるかもしれません)
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