学校現場は忙しい。雑多な仕事や行事に追われ、教室での学習指導も教科書の内容をこなすのが精一杯というのが実状である。
でも、もしたっぷりな時間ができ、教科書にとらわれない指導をしてもよいとなったら、教師は自分の学級の子供たちに何を教えようとするだろうか。
「自分の得意なサッカーをじっくり教えたい」「音楽の楽しさを伝えたい」「数式を解くおもしろさを味わわせたい」など、人により様々なことが思い浮かぶかもしれない。
それが個性である。
個性とは、「自分はこれが得意だ」「これが好きだ」「このことについては人に負けない自信がある」という自覚である。
では、どういう経過をもって自覚が育つのだろうか。最初は他者による認めである。学校教育の場合は、まず教師がその児童のよさ(得意分野等)を認め、次に友人(学級の友達等)が認め、その次に本人が自覚するという経過をたどる。
得意ということは、それが分野である場合と、方法である場合がある。(上智大学、加藤幸次氏の説による)
分野とは「自分は体育(あるいはその中のサッカーなどということもある)が得意だ」とか「ピアノの演奏だったら誰にも負けない」などという認識である。
方法とは、「自分は文学の主題をとらえていく活動をするときに、話し合いをするよりも、メモなどを書きためてやる方法が得意だ」とか、「社会の調べ学習をやるときには友達といっしょに調べて歩くやり方が好きだ」などというようなものである。
いずれの場合もそれが一生の自信になるような方向に育てていきたい。