鬼手仏心



 吹奏楽の指導者として素晴らしい実績をあげている方の講演を聞く機会があった。

 若い頃、先輩から泣くほど厳しい指導を受けて鍛えられたという。それでも、自分が少しでも上達すると、先輩は心から喜んでくれて、よく飲みに連れていってくれたのだそうだ。

 「まさに鬼手仏心でした」と、その方は語った。

 「鬼手仏心?」私は初めて聞く言葉であった。講演の概略を記したプリントに「鬼手仏心」と書かれてあり、「きしゅぶっしん」と言われたので、そう読むのらしい。

 知っている言葉ではないが、それまでの講演のなかみと、文字の感じから、表面上は鬼のように厳しくても、内面に優しい心を持っていることなのだろうと、そのときは自分なりに理解した。


 しかし、ちょっと気になることがあった。鬼のように厳しい様子を表すのなら、「鬼面」でもいいはずだ。どうして「鬼面」ではなく、「鬼手」なのだろう?



 どうもすっきりしないので、数日後、辞書で調べてみた。

 「鬼手仏心」という言葉が載っている辞書は少なかったが、2つの辞書でこの言葉を見つけた。それによると、この「鬼手仏心」の意味は、私が考えていたものと少し違っていた。

鬼手仏心
外科手術は体を切り開き鬼のように残酷に見えるが、患者を救いたい仏のような慈悲心に基づいているということ(広辞苑)


鬼手仏心
医者が手術をするとき、むごくみえるが心は仏のようであること(日本語大辞典)


 なるほど、単に表面が鬼のようだという意味ではなく、体を切り開くという外科手術の行為を指すものだったので「鬼手」という表現になったというわけだ。

 本当は、その出典なども知りたかったのだが、残念なことにどちらの辞書にも出典や語源などは書かれていなかった。ちなみに「鬼手」だけだと、全く意味が違って、「囲碁・将棋で相手を驚かすような奇抜な手」のことなのだそうだ。けして、漫画の「地獄先生ぬーべー」のことではない(^^;)



 「鬼手仏心」の意味については、これで解決したのだが、私には少々考えさせられることがあった。

 教育に鬼手仏心はないのだろうかということである。



 私が学生の頃、教育実習に行ったとき、担当してくださった(小学校の)先生は、けっこう年輩の男の先生であった。(当時から県内の教育界では高い評価を得ていた方で、後に大校長となって退職された方である。)

 この先生、お世辞にも優しい顔はしていなかった(^^;)小学校の3年生を担任していたのだが、あまり笑顔を見せない。いつも口をへの字に結んで、授業の時も話す口調はけっこう厳しい。

 ところが、3年生の子供たちは、その先生が大好きなのであった。よく見ると、口はへの字でも、目はいつも優しい。そして、子供たちが頑張った時に、その先生がときおり見せる笑顔は本当に優しい素敵な顔だった。



 小学校の先生は笑顔が基本であると言われている。このことについては、私も異論はない。子供たちがゆったりした気持ちで学習できないような強圧的な態度をとったり、あるいは無感動な態度で子供に接するような人は、教師にはむいていない。

 ただ、いつもにこにこしているだけでいいのかというと、そうでもないように思う。

 小学校の前半は、それでいいと思う。幼児に近いような状態の子供たちは、集中できる時間が10分程度しかない。小学校の授業の1単位時間である45分間を、飽きさせずに学習させるには、楽しい雰囲気の中で、興味を引きつけるような学習活動を工夫し、子供に「学習することは楽しいな」という気持ちを持たせることが大切である。

 しかし、子供が成長しても、このような指導をいつまでも続けるとなると、問題があるのではないかと思う。

 小学校の初期においては、「教育」の要素が全てである。しかし、子供の成長とともに「学問」の要素が次第に大きくなっていかなければならないと、私は考える。



 学問には厳しさも必要になってくると思う。楽で面白い活動だけでは学問はなりたたない。真理を求め、自らの知識や能力を高めようとするならば、辛いことにも立ち向かい、自らを奮い立たせて努力するということが必要になってくる。

 指導者は、場合によっては、子供たちに困難な問題を課し、大きな努力を求め、ときとして慢心や怠惰をいさめる厳しい態度で臨まなければならない。

 それが単なる迫害やいじめではなく、その子の能力を認めた上での、更なる成長を望む心(仏心)から出たものだとすれば、真に学ぶ気持ちのある子供ならば、指導者の愛情を理解して、自らの努力をもって応えるはずである。



 かなり前から、教育界では「自ら学ぶ」姿勢を育てることが一番の課題だと言われている。そのためには子供たちの興味・関心に配慮し、意欲を育てるような活動をさせなければならないというのが定説である。

 これが、かなり勘違いされているようにも思う。

 興味・関心をひきつけることにばかり努力がはらわれ、意欲をかき立てるだけの指導が行われているように思えるのだ。

 意欲は育てるべきものであって、かき立てるものではない。「やって面白い」という活動を準備してあげるだけでは、意欲は起こるかもしれないが、育たないのだ。



 本当に「自ら学ぶ」人間を育てようとするならば、小学校の後半から、少しずつ学問的な側面を出してきて、中学校では、それが半分近くになるようにし、高校になったら、かなりの部分にその色を濃くしていかなければならないと思う。

 ところが現状では、いつまでたっても「教育」的要素が大部分を占め、意欲をかき立てることだけに腐心した指導がなされているように思う。

 大人に近づいた高校生が、「今日の授業は面白れえなあ。今度はどんな面白い授業を先生が準備してくれるのだろうなぁ」というようでは、いけないと思う。(近頃は大学でさえ、そういう学生が増えているという)

 本当に「自ら学ぼうとする」人間を育てているのであれば、中学校後半くらいになったら、「自分はこれを学びたい。そのためには辛くても努力しよう。どうしてもわからないときは、何をやったらよいか指針を示してもらおう」という気持ちを持たせるようにしなければおかしいのである。



 まずは自分ひとりの力でなんとかしようとする。様々な資料などを求めて調べる。それでだめなら、(少々反動的な言い方になるが)専門的な知識・識見をもつ人に指導を乞うという姿勢そのものを育てていかなければ、真に「自ら学ぶ」人間を育てることはできない。

 スポーツの世界では当然のことなのだが、自分の力を高めていこうとするならば、苦しいトレーニングは避けられない。楽しく遊ぶだけでは、ちゃんとした効果は得られない。学習においても同じことがいえるだろう。誰かが与えてくれる「面白そうな学習活動」をしているだけでは、本当の意味での成長はないのである。知識や技能はある程度伸びるかもしれないが、「自ら学ぶ」という意識の面では、幼稚園児程度のレベルから成長しないのだ。



 そういう意味で、「仏面」「仏手」の指導が蔓延しすぎているようにも思う。子供の成長に応じて「鬼手仏心」の指導を徐々に増やしていかないと、結果的にはきちんとした人間を育てられないまま(不完全な人間を育てて)学校教育が終わってしまうのでは‥‥という懸念を、私は持っている。

 興味・関心にそった学習活動ということにこだわるあまり、いつまでも子供のご機嫌をとり、子供を甘やかして、本当の興味・関心や意欲を育てられない指導をしているのではないだろうかと心配になってきたので、少々偏った考え方かもしれないが、一言書いてみた。

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