頭のよい子を育てるにはどうしたらよいかという話である。「うんちく講座」久々の硬い話で、文字も多いので、興味のある方だけお読みいただきたい。
第1章 教師の一番の仕事は頭のよい子を育てること
(1)心よりもまず頭
ちょっと乱暴な言い方かもしれないが、「頭のよい子を育てることが教師の仕事」だと私は考えている。
そうではないという反論があるだろうとも思う。頭よりも「豊かな心」とか「たくましく生きる力」を育てるのが大事だという意見もあるだろう。
それももっともだ。しかし、「豊かな心」や「たくましく生きる力」を育てさえすれば、頭はよくなくてもよいと断言できる人がいるだろうか。
そんなはずはない。「豊かな心」や「たくましく生きる力」は、頭がよくなったうえで必要とされるものだ。どの子も「頭がよくなりたい」と願っている。「自分は頭がよくない」と悲しい思いをしている子がたくさんいる。中には「俺は頭なんかよくなくてもかまわない」と開き直る子もいるが、それだって「頭がよくなりたい」という願いがかなわないので、悲しい気持ちになり、それから自分を守るために開き直るようになってしまったのだ。開き直った子や悲しい思いをしている子に対して、原因となっている「自分は頭が悪い」ということを放っておいて、「君は頭は悪いが豊かな心を持っているから、それでよいのだよ」という教師がいたとしたら、それは教師としての怠慢である。教師が児童生徒に接している時間のほとんどは、いわゆる「勉強」を教えている時間なのだから、「勉強ができない」子が育ったとしたら、それは教師の責任である。
(2)こう言えばいいかも
「頭のよい子を育てる」というから誤解されるのかもしれないので、ちょっと言い換えてみよう。「子供の頭をよくする」と言えば少し感じが変わるだろう。さらに「頭のはたらきをよくする」と言えば共感していただける方も増えるのではないだろうか。
自分の指導している児童生徒の頭のはたらきが「素速く・正確に・柔軟性をもって」行われるように育てていくのが教師の仕事なのだ。
(3)野球を例にすると
運動能力に例えてみるとわかりやすいかもしれない。
例えば野球選手。飛んできたボールに対して、「素速く・正確に・状況に応じた」動きをとることができるのが優れた選手である。学習に例えれば、これが「はたらきのよい頭」である。
私は部活動などで球技の経験がないので、どんなスポーツをやっても動きがぎこちない。ボールが飛んでくることにも慣れていないため、いざ自分の方に飛んでくると、どうしたらよいのかいろいろ考え、頭の中がパニックになってしまう。運良くボールを捕球できたとしても、今度はそれを投げてやるときに、投球運動に慣れていない私の身体は、自分自身の運動をうまくコントロールすることができないので、思うように投げてやることができない。これは「はたらきの悪い頭」に似ている。
例にあげた野球の場合には、「素速く・正確に・状況に応じた」動きができるようにするために練習をする。走り込みや素振りをして野球をするために必要な身体を作り、キャッチボールやフィールディングなどの反復練習によって頭で考える前に身体が自然に反応できるような巧緻性を育てる。
この場合、ねらいはあくまでも「素速く・正確に・状況に応じた動きができる力と身体を育てる」ことであって、ランニング20周とか素振り200回とかノック100本などが目的なのではない。
(4)学習指導でも同じ
学習指導も同じである。「素速く・正確に・柔軟性をもった」頭のはたらきを育てることが目的であって、教科書やドリルなどはそのための手段として用いられるのである。このことはごく当たり前のことだが、最初はわかっているつもりでも、学期末などで授業の進度が遅れてきたりすると、つい「教科書を最後まで終わること」が目標にすりかわってしまうことが(私の経験では)あるような気がする。
教科書の内容を消化することを第一に考えてしまうようになると、本来の目的である「児童生徒の頭のはたらきをよくする」ことが見えなくなってしまう。そして、「自分は頭が悪い」と悲しい思いをする子を増やしてしまう。
授業中に指名されて発表させられることをおそれている子がいるはずだ。こういう子は「自分の方にボールが飛んできませんように」と祈っている私と同じだ。こういう子の頭のはたらきは、老人の筋肉のように油が切れて貧弱な状態なのである。
(5)学力向上は本当に必要
「全力をあげて、徹底的に、児童生徒の学力向上を!」などと言われると、眉をひそめる教師もいると思う。おそらくそういう場合には、「計算練習や漢字ドリルを繰り返して、受験の点数を少しでもアップさせる」というような感覚でとらえているのではないかと思う。(言っている方もそういう感覚なこともあるかもしれないが)
学力とは「素速く・正確に・柔軟性をもった」頭のはたらきであると考えれば、そういう力を育てて伸ばしていくことは絶対に必要である。その意味での学力向上こそが教師の仕事である。
学力観は時代とともに変化してきたが、いわゆる「新しい学力観」は、私が言っている「頭のはたらき」に近いと思う。子供たちが悲しい気持ちにならないように「頭をよくしてやる」ことは必要なのだ。それは計算練習を多くやったり、公式や年号を暗記させたりするものとは別の種類の指導である。
入学試験の問題をほとんど解くことのできないような子に、5点でも10点でも高い点数をとらせるためには、たしかに基本的な計算練習を数多くさせたり、漢字練習だけを徹底して行わせるという方法もある。しかし、それは本質的にその子の頭をよくすることにはならない。気の毒だが、その子の頭のはたらきは、その時点では救いようがないほど悪くなってしまっているのであって、本来ならばそれよりずっと前に、その子の頭のはたらきをよくしておかなければならなかったのだ。
そういう「頭のはたらきの悪い子」を生み出さないためにも、本質的な意味での学力向上は必要である。そのためにどうしたらよいのかということを全力で考え、取り組まなければならない。
第2章 はたらきのよい頭とは
(1)頭のよい子は何でもできた
「新しい学力観」のことをちょっと書いたが、実は「頭のよい子(きちんと言うなら頭のはたらきのよい子であるが)」にとっては「新しい学力観」も「古い学力観」も関係ないのである。
「古い学力観」は知識の教えこみや技能の習得に力を入れすぎていたという反省があり、それにそって「新しい学力観」では「自ら考える力」などが重要視され、問題解決能力の育成や体験的活動の重視が提唱されているのだが、頭のよい子はずっと前から自分の中でそれを行ってきていたのだ。
「古い学力観」の時代に、知識をどんどん詰め込まれたとしても、頭のはたらきのよい子は、それを自分なりに理解し、消化し、自分のものにしていたから、どんな教え方をされても大きな問題はなかったはずだ。さらに「新しい学力観」に立つ指導が行われれば、頭のはたらきのよい子は、一層、水を得た魚のように活躍するはずである。
(2)はたらきの悪い頭とは
では、そうでない子たちはどうなのだろう。
こんな子はいないだろうか。
「あの子は真面目に努力をしているし、計算問題はきちんと全部解けるのだが、文章題になると全くできないもんなぁ‥‥」
これが「はたらきの悪い頭」であると私は考える。教えられたことはきちんと覚えるし、練習したことは確実に身につける。しかし自分の力だけで未習の問題に対応することができない。
こういう子に対して、どんな指導をするだろうか?
「文章題が弱いから、とにかくいろんな種類の文章題を数多くやらせて、いろんな解法を覚えこませるしかないなぁ‥‥」
これが一般的かもしれない。しかし、これでは解決にならない。一度も練習したことのない問題が出たら、それでアウトである。(こういう指導観を持つこと自体が、まだ教えこみ重視から抜け切れていないのだが‥‥)
つまり、教えられたことを教えられた通りにしか使えないというのが「はたらきの悪い頭」ということができよう。
昔はそれでも良かった。世の中の変化が少なくて、祖父母が子供時代に習ったことが孫の時代でも通用するという社会なら、教えられたことをきちんと覚えてさえいれば間に合ったのである。
それだと少しくらい頭のはたらきが悪くても、真面目に覚える努力さえすれば、社会で生きていく上で困ることはなかったのである。
ところが、今は違う。今の子供たちが大人になったときの世の中はさらに違っているだろう。おそらく学校で習ったことのない新しいものばかりの中で生きていかなければならないのだ。
そうなると「はたらきの悪い頭」では生きていけない。
(3)はたらきのよい頭とは
ここからが本題である(^^;)
では、「はたらきのよい頭」とは、どんな頭なのだろうか?
たくさん言葉を使えば、より詳しい説明ができるのだろうが、あえて一言で言おう。
それは「おきかえる力」(置き換える力)がある頭である。
ちょっと言い換えるならば「抽象的な概念をもつことができる力」とも言える。
例えば数学の連立方程式を立てなければならないとき、「ある数の3倍を‥‥」を「3χ」と表現できるかどうかで、式を立てられるかどうかが決まる。これをひとりでできない子がたくさんいる。この子たちは未知のあるものを「χ」という文字で表現するという概念がないのである。
とりあえず、教師や友達の真似をして、「χ」などと書いてはみるが、基本的にその概念がないのだから、まるでちんぷんかんぷんな立式をすることが多いはずだ。
あるものを別のもので表現するという力。これが「置き換える力」であり、これがスムーズに使える頭が「はたらきのよい頭」である。
これは数学だけでなく、国語でも同じである。
ある言葉を別の表現の言葉で言い換えることができるというのが、その力である。この言い換えが1通りだけでなく何通りもできるほど、もとの言葉に対する理解が深いと言えるし、これが即ち「頭のはたらきのよさ」を示すことにもなる。
「新しい学力観」に何度もこだわるが、その中で特に重要視されるのが、「既習の知識・方法・概念などを使って、新しい知識・方法・概念などを生み出すこと」である。
情報活用能力の育成については、インターネットや書籍から新しい情報を入手することばかりに目が向きがちだが、実は入手した情報から何を生み出すかが大切なのであり、情報発信はその上に立ったものでなくてはならない。
前述したように、子供たちが生きる未来の世の中は、今、学校で学んでいる知識だけでは絶対に間に合わない社会になるだろう。だからこそ、私たち教師は知識ではなく頭のはたらきを育てなくてはならないのであり、それこそが「新しい学力観」であると考える。
そして、それが「おきかえる力」なのである。
(4)これで無敵
この「おきかえる力」がきちんと育ってさえいれば、今後の世の中で生きていくのは大丈夫である。
覚えこんだだけの知識は転移しないが、「おきかえる力」は他の領域にも転移する。例えば社会科の学習で地名や年号を覚えるのは「知識」だが、それらの知識を学ぶ際に、世界や日本の地理の概要のとらえ方を理解したり、歴史の流れの面白さやその源流にある人間の気持ちというものを考えることができたとすれば、それは他教科や自分の生き方にも生かすことができるようになる。
知識は頭のどこかに刻み込まれるだけで、忘れてしまったらそれで終わりだが、「おきかえる力」によって生まれた概念は自分の心にも残るし、仮にもとになった知識を忘れたとしても、力だけは一生消えないで残るはずだ。
くどいようだが、私たち教師は、この「力」を育てているのである。「頭のはたらき」を育てているのである。国語・算数・理科・社会などの学習内容は(今のところは知識としても大事だが)、それを使って「頭のはたらき」を育てていくための1つの方法・素材である。
第3章 頭のよい子をそだてるには
(長い文章をここまで読んでいただき感謝申し上げます。まもなく終点です^^;)
ここまで読んでいただけば、私の言う「頭のよい子」というのはご理解いただけたことと思う。それは「おきかえる力」のある子、「抽象的概念をもつことができる子」である。
では、どうしたらそんな子になるのか?
簡単に結論から書くと、「小さい頃から物語をたくさん読ませる!」これだけである。
いささか拍子抜けした方もいらっしゃるだろう(^^;)しかし、私はこれだけで十分だと思うし、これしかないようにも思う。
算数でも理科でも社会でも、基本になるのは言葉の力である。物事を理解したり、考えたり、再構成したり、表現したりするのに言葉の力が弱くては、どうにもならない。
ここでいう言葉の力とは論理的思考力であり、置き換える力そのものである。
この力を育てるには、とにかく抽象的な言語体験を小さい頃から数多くさせるしかない。それに最適なのが、物語を読むことだと思う。
もともと文学作品そのものが抽象的であるとも言える。読者は文字で表記された言葉をもとに自分なりに作品の世界をイメージして読んでいくわけである。
そういう意味では、漫画やアニメでは物語(文学作品)の代用にはならない。読者がイメージする前に、具体的な姿が与えられてしまうからだ。物語を漫画化したものもあるが、それによって「心」は育つが「おきかえる力」は育たない。
説明文などの科学的な文章も、そういう意味では、あまり役に立たない。図鑑などもそうだが、言葉と事物の1対1対応があまりにもはっきりしているからだ。(そういう本も面白いので読んでもいいのだが、それだけだと「おきかえる力」は育ちにくい。物語から入って読書の面白さを知った子が説明文にも目を向けていくことはあるが、説明文から物語に移行していく子は少ないように思う)
いろんな物語をたくさん読むことで、語彙も豊富になる。「学習とは語彙が増えることだ」という説を読んだことがあるが、私もそう思う。貧弱な語彙では「おきかえる力」は育たない。
豊かな語彙を身につけ、言葉によって自分なりにイメージする力を身につけ、抽象的な概念をもつことができ、それを別の言い回しで表現できるという「おきかえる力」を育てていくには、物語を小さい頃からたくさん読むのが効果的であるというのが、この文章の結論である。
「証拠は?」と言われると、はっきりしたものはない。ただ、私自身の経験や、私が見てきた子供たちから考えると、かなりあたっている考え方のように思うのだが‥‥