体験は一度だけでもよい



 「子供たちに自ら学ぶ力を育てなければならない。そのためには体験的な活動や問題解決的な学習を重視しなければならない」というのが、今の学校教育の主流になっている考え方である。

 では体験的な活動というのはどのくらいやったら効果的なのであろうか。

 「どんな体験でも、たった一度やったくらいでは効果がない。できるだけ回数を多くして体験させないと身につかない。ちょっとだけしか体験させられないようなものなら、無理してやらせることもない」つい最近まで、わたしは漠然とこう考えていた。

 ところが先日、私の家の食卓の上にあったある物を見ているうちに考えが変わった。

 ある物とは、下の写真の陶器である。

実は茶碗です
でもお玉置きになりました
一応、茶碗のつもりで
作ったのだが‥‥
今では立派な
「お玉置き」に



 これは数年前、ある研修を受けたときに、笠間焼の窯元に行って作ったものである。作った時点では茶道に使う茶碗ということだったのだが、実際に焼き上がってみると、かなり小さくなってしまい、かたちもいびつで、ちょっと茶道で使うという代物ではなくなった。しかし、大きさが味噌汁をすくうお玉を置くのにちょうどよかったため、現在では「お玉置き」として活躍している(^^;)

 これはあまり成功した体験とはいえない。しかし、たった一度のこの体験で、それからはテレビで焼き物のことを扱った番組を見ても、ずいぶん身近に感じるようになった。



 幸か不幸か、私はまだ胃カメラを飲んだことがない。だから、それがどんな形をしているか、また飲むときにはどんな感じがするものかがわからない。

 ところが一度でも飲んだことがある人は、ずいぶんと雄弁に、そのことについて語る。(聞いていると、ますます飲みたくなくなるが‥‥)でも、そうやって語る人にしても何十回も飲んだというわけではないだろう。



 以下、体験についての例の羅列になってしまうが‥‥



 縄ないは2度ほどやったことがある。そのときに、なんとか縄らしいものができたので、以来、「私は縄をなうことができる」と言っている。



 馬には一度も乗ったことがない。競馬のジョッキーのように乗れなくてもいいが、公園のポニーでもいいから一度またがってみたいものだ。そうしたら「私は馬に乗ったことがある」と言うだろう。



 体験とは、そういうものなのかもしれない。何度も繰り返して、そのことに熟練しなくても、たった一度だけで「私は○○ができる」という感じになる。まるでやったことがないのと、一度でもやったことがあるのでは、そのものに対しての感じ方がまるで違ってくる。

 言い換えれば、聞いたり読んだりしただけの知識が、たった一度の体験によって自分のものになるということなのかもしれない。

 そう考えると、子供たちには、たった一度だけでもいいから、多様な体験をさせるということが大事だということになる。そのことによって、知識が単につめこまれたものではなく、生きた知識になっていくだろう。



 よく歌手や役者が、「恋愛体験が自分の芸に生きる」などと言うが、男女の関係だって、一度でも相思相愛の関係になったことがある人と、そうでない人では、とらえ方が全く違ってくると思う。



 「お玉置き」として活躍している私の作品を見て、あらためて「体験的な活動」の大切さを考えた私であった(^^;)

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