立場がしゃべる
かなり話の上手な教師がしゃべっても、数人はむだ話をしたり手遊びをしている子供がいるものだ。
ところが子供が発言する場面になると、全部の子供が、その子をじっと見て聞くという場面が見られる。
場面はかわって結婚式の披露宴会場。
司会者が流暢にしゃべっても多くの参会者は雑談に興じている。ところがかなり訥弁の人がスピーチをしても、参会者全員が水を打ったように静まり返ってその話を聞くという場面も見られる。
これは、どんなに教師や司会者が話上手でも、その立場でしかしゃべっていないのに対し、子供や訥弁のスピーチ者が生の自分の言葉でしゃべっているからだと考えられる。

一般に、人が「立場でしゃべる」場合の話というのは、聞いていてもおもしろくない。
国の政治の施策を聞いてきた役人が、地方の職員を集めてそれを伝達するなどという話で、聞いていて思わず腹を抱えて笑ったり、涙を流して感動したりするということはあり得ない。
それは、話の内容が話す本人とは直接関係なく、本人もそれをわきまえて、立場として話すべき内容だけをしゃべっているからだ。もちろん、そういう話のときに、個人的な話をされたり、私見を述べられたりしても困る。聞く方でも特別にその話を聞きたいから聞くというのではなく、聞かなければならない立場だから義務的に聞いているわけである。要は、こんな場合、その人個人が話しているのではなく「立場」が話しているということであり、聞く方も「立場」が聞いているということになる。
聞いていて思わず話に引き込まれていくのは、話す人の生の姿が感じられるような話である。だからカタイ話の中に、ちょこっとだけ、生の自分を出したりして、聞き手をひきつけるというテクニックは、話の上手な人ならよく使う手法だ。
ただ不思議なのは同じポストにある人が話をしても、その人自身から受ける印象によって、同じカタイ話でも、ずいぶんと感じが違って聞こえるということだ。
かなり厳しい内容の話をしても、全体的に暖かい感じがして、素直にその内容を受け入れられるような気がすることもあれば、反対に内容的にはとても良いことを言っていても、どうもその人自身から受ける印象が悪くて、話の内容そのものにも反感を感じてしまうなどということもある。
ひどい場合だと、「お前は口では立派なことを言っていても、実際の自分の生活じゃあ、かなり悪いことをしてるんじゃないの?」などと感じてしまうようなこともないとはいえない。
こういう人は概して、ちょっとエライ立場にあるからみんなが話を聞いているだけなのに、自分個人がエライと勘違いしている人に多い。
カタイ話をしていても自然にその人の優れた人間性がにじみ出てくるような話をする人もいる。人の上に立つ立場の人は、その立場と溶け合うような高い人間性を持ちたいものだ。
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