「東雲」と書いて「しののめ」と読む。
そのことは前から知っていたのだが、「どうしてそう読むの?」と聞かれて、わからなかった。
これは辞書で調べてみると意外に簡単にわかる。
「広辞苑」には、次のような説明があった。
- しののめ【東雲】
- 一説に、「め」は原始的住居の明り取りの役目をしていた網代様(あじろよう)の荒い編み目のことで、篠竹を材料として作られた「め」が「篠の目」と呼ばれた。これが、明り取りそのものの意になり、転じて夜明けの薄明り、さらに夜明けそのものの意になったとする。
この説明は「東の雲」まで及んでいないのだが、夜明けに東側の空の雲が明るくなることから、夜明けを東の雲で表現したのだろう。
篠竹(しのだけ)の目という語源から、ずいぶんと転じて「東雲」になったものだ。
言葉のいわれなどを調べてみると、このように「転じて」別の意味になったという例を多く目にする。
「東雲」はしゃれた感じで転用された例だが、読み方や文字を間違えて、結果的に転じたような例もある。
「独壇場」(どくだんじょう)という言葉がある。「自分ひとり思うままにふるまう所」という意味である。
ひとりの人間が演壇に立ち、自分の意見を思うがままに述べている様子が思い浮かべられる言葉だが、これは文字の間違いから使われるようになった言葉である。
本来は「独擅場」(どくせんじょう)という言葉であった。「擅」(せん)は「ほしいまま」という意味を表す文字で、例えば、「擅断」(せんだん)といえば「ほしいままに事をとり決めること」であり、「擅議」(せんぎ)といえば「勝手にとやかく言うこと」である。
この「擅」という「てへん」の文字を、「壇」という「つちへん」の文字と勘違いしたところから、「独壇場」という言葉が生まれてしまった。
しかし、文字から想像されるイメージが、もともとの意味からはずれていないためか、現在では「独壇場」の方が一般的に使われているようだ。
漢字の使い誤りが一般化している例もある。
講演会などで「ごせいちょうありがとうございました」というが、この「ごせいちょう」を漢字で書く場合、「ご清聴」が正しい。これは「相手が自分の話を聞いてくれることの尊敬語」なのである。謙譲語である「拝聴」の逆である。
ところが、これを「ご静聴」だと思っている人が多い。「静聴」という言葉がないわけではない。これは文字通り「静かに聞く」という意味で、講演会の前に司会者が観客に向かって「ご静聴をお願いします」などと言う場合はこれである。
しかし、話した本人が聞いてくれた人にお礼をいう場合には、本当は「ご清聴ありがとうございました」というべきである。
私は、これまで、この「うんちく講座」で、いくつも「日本語の乱れを嘆く文章」を書いてきた。しかし、日本語というのは、とてもフレキシブルな言語で、ここで例にあげたように、本来の意味が何度か転じて現在の意味になったり、誤った使い方のほうが一般化してしまったりということが数限りなくあるようだ。
大昔の日本人が今の日本語を聞いたら、「全く違った意味で使っている!」と怒るかもしれないが、それは現代の私たちには迷惑である。私が「今の若い人たちの日本語はなってない!」などとわめいても、使っている本人たちには迷惑なハナシなのかもしれない。
ただ、私がそれでも「あーだ、こーだ」と言うのは、聞いていてとても感じが悪いという理由からだけである(^^;)