罰を与えなかったツケ



悪魔が育った

 この頃(現在は平成10年9月)、食品への毒物混入など、不特定多数の人間をねらった犯罪が多発している。

 特定の誰かに恨みがあるわけでもない。金を手に入れようとしての犯罪でもない。おそらくちょっとしたイタズラ程度と思ってやっている愉快犯的な犯行なのであろう。

 全国各地で多発しているので、全ての事件にあてはまるわけではないが、これらの事件の犯人の多くは若い年代の人間のように思える。和歌山の事件は保険金目当てという感じがあるので(現在、逮捕されているわけではないので断定はできないが)年齢が高そうだが、他の事件の場合、どんなに年をとっていても、せいぜい40代までだろう。

 戦後の教育、もっと限定すれば最近の教育を受けた年代である。

 子供の能力や長所を伸ばすことに力を入れてきたが、悪いことに対するけじめをつけないできた教育のつけが、こんな悪魔のような人間が多発するという現象に出てきたように思う。

悪いことがわからない

 「子供の個性を尊重し、よさを認め、心を育てる」というのが、今の教育の基本である。これはこれで良い。最近の子供は心が貧しいと言われる。それを様々な体験などを通して豊かな心に育てるというのは、本当に必要なことだし、実際にそのような取り組みが多く行われ、成果も出てきている。

 しかし、良い人間に育ったからといって、その人が「悪い人間でない」と言い切ることはできない。某国の大統領のように、政治家として成果をあげ、プラスの方向に大きな力を持つ人間でも、同時に倫理から外れた行動をとるというマイナスの方向の人間性を持つ例もある。

 よく、事件の犯人がつかまったりすると、近所の人が「普段はとてもよい子だったのですが、あんな犯行をするなんて想像もつきません」などというが、犯人が「よい子」のふりをしていたのではなく、本当によい子だったけれども、同時に悪い子でもあったと考えるべきである。

 しかも、意図的に悪いことをしたというよりは、悪いことをするという行動に歯止めがきかなかったと見るべきであろう。

 要は、善悪の判断(特に悪に対する判断)が育っていないということである。

悪に対する歯止めは

 「悪いことをしてはいけない」ということを身につけさせるには、どんなに口で言っても効果は少ない。また、良いことをどんなにほめたり勧めたりしても、良い行動に対しての効果はあるが、悪い行動に対しては無関係である。

 「悪いことをしたら、大変なことになる」ということを身にしみて感じさせなければならない。

 宗教が徹底している国なら、「どんな行動も神は見ており、死後、裁きにあう」ということだけで足りる。しかし我が国は基本的に無宗教である。

 「大変なことになる」ということを、「被害にあった人が大きな迷惑を被る」とか「相手の人の気持ちを思いやれば悪いことはできない」などと言って諭しても、効果はない。

 人間は基本的に自己中心に生きている。それが生きる力のもとになっているのであり、自己中心が悪いことではない。だから「悪いことをしたら、自分がひどい目にあう」ということをきちんと教えていかなければならない。

 悪いことをしたら、簡単に許したりしないで、きちんと罰を与えて叱るということをやっていかなくてはならない。叱って善悪の判断を教えていくことが、幼児期のしつけの基本であることは誰も否定できないだろう。

 ところが、これがきちんと行われていない。また、このしつけは大人になるまで継続して行わなければならないのに、「子供にも人権がある」などと言って、早い時期にしつけをやめてしまう傾向がある。

 とんでもないことである。人権などというものは、悪いことに対しての判断がつく人間にだけ許されるもので、飲み物に毒を入れて誰かが死ぬのを愉快がっているような生き物に人権もなにもない。こんな人間の顔をした悪魔には、地上に存在する権利を与えてはいけないのである。

 ところが、私たちは、こんな生き物を量産してきた‥‥‥

甘やかさずに厳罰を

 世の中全体が犯罪者を甘やかしていると感じる。

 今回のような犯罪の場合、徹底して犯人を見つけ、たとえ被害者に死者がいない場合でも、死者を出す可能性があった場合は、全て死刑または無期懲役にすべきである。犯人の氏名もはっきり公表すべきだ。それが未成年者でも、精神状態に異常があった場合でも同様にすべきである。

 家族に迷惑がかかるということもあるが、自分の家庭から凶悪な犯罪者を出した責任は家族にもある。それで一家が破滅するようなことになっても、甘んじて受けるべきであろう。

 殺人および未遂に限らず、多額の金を不正に手にしたような犯罪も同様である。死をもって断罪するぐらいの姿勢で臨まないと不正は絶えない。

 推理小説などでは、犯人には過去の出来事に対する復讐など、共感できる動機があることが多いが、この頃の犯罪にはそんなものはないように思える。自分のたいくつや不機嫌をまぎらし、面白半分の興味を満足するために、人の命を危険にさらすようなことを(重大な犯罪とも考えないで)やっているのだとしたら、そのような人間に情状酌量の余地は少しもない。こんな人間は人間として存在することは許されない。

 人間は神ではないから、個人の存在の可否を他者が判定するなどという権利はないのかもしれないが、人間とも呼べないような生き物の存在を許さないことも、人間としての責任なのではないだろうか。

 「一度だけのあやまちだから許す」のではなく、「一度だけのあやまちも許さない」という厳しい態度が、悪いことをしない人間を作っていく唯一の方法であると思う。

学校でも罰を

 しつけは子供のうちに行わなければ意味がない。学校でも悪いことに対してはきちんとけじめをつけさせることが必要である。

 中学生の非行はこれまでずっと問題になってきており、近年は事件の件数も増し、低年齢化の傾向も見られる。また、いわゆる「非行少年」の犯罪だけでなく、「ふつうのよい子」が起こす犯罪が増えてきている。

 中でも多いのが「万引き」である。「お金がないけどどうしても欲しいものがあるので盗んでしまった」という事例はほとんどなく、「お金は持っていたけど使いたくないので」とか、「見つかったらお金を払おうと思っていた」とか、「スリルを楽しみたくて」とか、「つかまって、親が呼ばれて怒られるとおもしろいと思って」とか、「つかまっても説教されるだけで済むと思ったから」など、悪いことをやっているという意識があまりない遊び感覚でやってしまう子供が多いそうだ。

 親も、それほど自分の子供が悪いことをしたという感覚がないようで、「いくら弁償すればいいんですか?」と聞く親や、「自分の子供がつかまえられたときに、公衆の面前で連れていかれたので、子供の人権が侵害された」などと寝ぼけたようなことをいう親がかなりいるそうだ。

 自分の子を殴りつけ、涙を流して土下座し、「取り返しのつかないことをしました。この通り謝りますので、どうか許してください」と言い、翌日には親子ともども頭を丸め、謝罪の品を持って謝りに行くのが、正しい親の姿(?)であると、私は思う。そうしないと子供は悪いことの判断ができない人間になる。

 現在の法律(学校教育法第11条)では、体罰を与えることはできないことになっている。体罰自体は暴力であるから肯定することはできないのだが、万引き・ゆすり・暴力などの事件を起こした子供には、きちんとした制裁の罰を与える必要があると思う。子供だから許すという甘い態度では、「俺が悪いことをしても、学校なんて何にもできない」となめられてしまうし、その子自身の一生にとっても良いことではない。

 学校教育法第26条には、「性行不良であって他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる」とあるが、これは制裁としての罰としてふさわしくはない。あくまでも学校の秩序を維持し、他の児童の教育を受ける権利を保障するためだけに行われるものであって、悪いことをした子供に対する教育を放棄することになる。

 学校として罰を与える場合、私だったら次のような方法を考える。

 ○ 坊主刈りにさせる。
 ○ 一定の期間、部活動に参加させない。
 ○ 一定期間、草むしり・トイレ掃除などの奉仕活動をさせる。
 ○ 早朝登校し教科書を音読する。

 この程度の内容なら、極端に身体的苦痛を与える体罰にはならないだろう。坊主刈りはきついかもしれないが、2ヶ月もすれば髪は普通に戻る。

 このようなことをすれば、悪いことをした事実は他の子にわかられてしまう。しかし、それはそれで必要なことだと思う。子供の人権を守るというきれいごとのために、やってしまった悪いことを隠してうやむやにする必要はない。

 「この子はこんな悪いことをした。そして、こんな罰を受けた。そして、今は立ち直った」ということを明確にしていけばよい。他の子にも「悪いことをしたら、あんな罰を受ける」ということをわからせておくことも必要だ。

 私が中学校の校長ならば、入学式のときに、生徒と保護者に対して、そのことを明言しておく。そして、そのことに対して意見のある方は、電話でも手紙でもよいのでお話くださいとしておく。

 罰を与えるのは悪いことではない。むしろ必要なことなのだ。そして、きちんと罰を受けたあとで、更生しようとする子供を力づけて育てていくことが、学校としての義務であると考える。

(強硬意見なので、反論が多そうですね‥‥)(^^;)



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