ゆずれないもの
(この文章は夏の暑い盛りに書きました)
髪を短く切った。長いままでは暑くてたまらない。髪の中にたまった熱気がむんむんして、考えもまとまらなくなる。
学生の頃は、真夏でも我慢して髪をのばしていた。ロックバンドをやっていたせいもあるが、長髪は自分の存在のあかしであるように思っていた。
私は下宿こそしていたが、出身県の大学に在学していたので、家に帰ることも多く、昔気質の親父に怒られない程度の程々の長髪であったが、私のバンド仲間は背中にまで届くような長髪の人間も多くいた。
ニール・ヤングの古い曲に「もう少しで髪を切っちまいそうだった」という内容の曲があった。心が弱くなって、もうちょっとで髪を切ってしまってもいいような気になったというような歌詞だったと思う。(Almost cut my hairだったか、cut off my hairだったか)
和製フォークの「いちご白書をもう一度」(バンバン)でも、「就職が決まって、髪を切ってきたとき、もう若くないさと、君に言い訳したね」という歌詞がある。
私を含めて、当時(昭和40年代後半〜50年代前半)の若い男性には、長髪は自分の自由と若さの象徴だったような気がする。「ずっとのばしていた髪を切る」ということは耐えられないことだったし、自分で髪を短くするということは青春を終わらせることのような感覚を持っていた。
大学を卒業し、職に就いて、髪を短くし、それから20年以上になる。(短い髪型にしても、刈り上げはせずに襟足だけは長めにするのは、「白い靴下」と同じように私の年代の特徴のように思う)
髪型の流行も変わり、短髪も「ファッショナブル」ととらえられるようになった。長い髪の若い男の子も多いが、それも様々な個性の1つとして自然に受け入れられる世の中になった。
「『長髪の自分』だけはゆずれない」というようなものが、今でもあるのだろうか?
「今の若い人はどうだろう?」という無粋な話は置いといて、自分のことを振り返ってみた。
タバコ・酒・ギャンブルなどは、やめた方がいいと思いながらもやっているわけだから、「これをやめたら自分が自分でなくなる」というようなものではない。
ホームページ作りも、自分の意志でやっているものだが、「面白半分」というタイトル通り、気楽にやっているものだから、「やめたら自分の存在が否定される」というわけでもない。
本当に「ゆずれないもの」というのは、自分にとって何なのだろうか?
強いていえば「自由な気分」だろう。
「それって、学生時代の長髪と同じじゃない?」と言われそうだ。たしかにそうである。ただ、学生時代の「自由に対するもの」が自分以外の既存の体制等であって、それに対抗するためにカタチとして髪をのばすことが普通だったのに対して、今は「自由を束縛するもの」が「自分自身の意識」であり、それに対抗するために特別なカタチが必要でなくなったという違いであろう。
もう一つ、「ゆずれないもの」「守りたいもの」があるとすれば、それは家族だろうか。若い頃には家族が自分の反対の場所にあったことを考えれば、だいぶトシをとったものである(^^;)
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