ふぐの刺身と教養


 世界の三大珍味とか言うものがあるそうだが、残念なことに私はその一つも食べたことがない。ちょっと前に出席した知人の結婚式でキャビアが料理に出たようなことを同席した友人が話していたが、私がそれを食べ損ねたのか、食べてもそれがキャビアだと分からなかったのか、いずれキャビアを食べたという記憶がない。(もっともキャビアの味を知らないのだから無理もない)
 実はふぐの刺身も生まれて一度も食べたことがない。写真などで見ると、皿の模様が透けて見えるほど薄く切られたふぐの刺身が菊の花びらのようにきれいに盛られて、実においしそうである。死ぬまでに一度は食べてみたいものだと思っている。

 このふぐの刺身が、現代の情報にとてもよく似ていると私は思う。インターネットなどで提供される情報はとても多種多様だが、その一つ一つはまるでふぐの刺身のように薄い。私たちは多様な情報の断片を見ているようなものである。
 その薄い切り身のような情報から、大きな何かを感じ取ったり、触発されたりするためには、受け取る側の下地がなければいけない。私はそれが教養であると考える。
 清少納言の枕草子の中に白氏文集の文を下敷きにした「香炉峰の雪は・・・簾を上げて・・」の一節があるが、これなどは既に持っている知識の上に機知を生かしたよい例である。

 まぐろの刺身は私もよく食べるが、これはなるべく厚い切り身で食べる方がおいしい。口いっぱいにほおばると、まぐろそのものの味を十分に堪能することができる。このまぐろをふぐの刺身のように薄く切ったならば味はほとんど分からないだろう。
 ふぐの場合もふぐそのものの味を知っていなければ、薄く切られた刺身の一片を食べただけでは、それがふぐであることに気づかないかもしれない。
 ふぐの刺身のような薄っぺらな情報から、もっと大きなものを得るには、受け取る人間に下地となる知識が必要である。また、自分で求めているものがある人間は、一片の情報から新しいインスピレーションを得ることができる。

 この教養をどう育てていくか、考えなければならない。教室での学習だけでは広く深い教養を身につけさせることはできないだろう。児童生徒に読書や様々な体験をどうやってさせていくかが大きな課題である。

 いずれ、私もふぐの刺身やキャビアなどを食べてみないことには話にならな い。(^^;)


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