MY BIOGRAPHY
※ 秋田県の人にしかわからない部分なども多いかもしれません(^^;)
生年月日 昭和29年11月14日(現在52歳)
住 所 秋田県由利本荘市前郷
家 族 妻、長男(大学院4年)、長女(中学2年)、父、母、私
略歴・音楽歴
昭和36〜42年、由利町立前郷小学校
やや体が弱く、歌を歌うことと本を読むことがすきだった。中学年までは、西郷輝彦等の御三家を中心とした青春歌謡系の歌手がアイドルだったが、三橋美智也・春日八郎・水原弘などの曲も得意とした。高学年になると折からのグループサウンズ・ブームに影響される。友人の姉にビートルズを聴かせてもらう。(リアルタイムで)「抱きしめたい」「シーラブスユー」だったと思うが、ブルーコメッツの方がずっといいと思った。
児童会長などをやり、人の前でしゃべったりする快感を知る。
昭和42年〜45年、由利町立由利中学校
入学してすぐブラスバンド部に入りトランペットを吹くが、扁桃腺が弱いため、すぐに喉を痛め、1年で退部。以後は生徒会活動を中心にする。グループサウンズ・ブームも下火になり、フォーク・ブームが起きる。生ギター1本でやれることに感動し、友人からクラシックギターを借り、「Am・Dm・E7」の三つのコードで弾ける曲を探してやり始める。
ピーター・ポール&マリーなどに挑戦してみたが、英語が難しすぎるのと弾き方が高度すぎるので、すぐに挫折。岡林信康・高石ともや・カルメンマキあたりに走る。
初めて洋楽のレコードを買う。フィフス・ディメンションの「輝く星座(アクエリアス)」とスコット・ウォーカーの「行かないで」。
昭和45年〜48年、県立本荘高校
当時は今ほど本荘由利地区の学力が低くはなく、「秋高を追い越せ」を合い言葉に本荘高校も進学熱がピーク。受験戦争の戦士(^^)となるが、雰囲気が嫌で、ちんたらした毎日。
入学祝いにクラシックギターを買ってもらい、ちょぼちょぼ弾き始めたとき、同学年の医者の御曹司がやっていたロックバンドと知り合い、ヴォーカルとして参加を求められる。1〜2年生の間は、そのバンドで、ストーンズを中心に、グランド・ファンク・レイルロード、ショッキング・ブルー、ステッペン・ウルフ等のヒット曲をやって、文化祭、ダンスパーティなどで演奏する。
御曹司が地元を離れることになりバンドは解散。メンバーの一人がロック通だったので、クリーム、キング・クリムゾン、テン・イヤーズ・アフター、レッド・ツェッペリン等を聴かせてもらう。自分でも曲を作り始めるが、こちらはフォークソング風。
当時、ライバルバンドでドラムを叩いていた伊藤秀志くん(剣道部だったので坊主刈りだった)は、現在、名古屋方面で人気のDJ&シンガーソングライター。
お気楽な人生を求めて、無理せず教員志望。千葉大にも受かったが、秋大のほうが美人が多いだろうと考え、秋大にいくことにする。美人の件は後で大きな勘違いだったと気付く。
昭和48年〜53年、秋田大学(なぜか5年間いました)
教育学部小学校課程国語副専攻に入学。やたら女性が多く、自分になじまない雰囲気を直感し、社会勉強を中心にしようと決意。授業には欠席することが多かった。「軽音楽部」に入ろうかと見に行くが、仲良しサークル的な感じでこれも自分になじまず、大学祭実行委員会に入る。1年生の後半から2年生の前半は、それに燃える。
大学祭を企画していく中で、「田舎紳士・ロック研究班」という同好会組織が学内にあることを知り加入。グレコのエレキギター(ギブソンのレスポールのコピー)を買い、メンバーを探す。
【あしたのジョー】
2年生の後半、「ロック研」(「田舎紳士・ロック研究班」を自分達ではそう呼んでいた)のメンバーの中で、土志田さん(鉱山学部採鉱科4回生、学生運動をやめてドラムを始めたばかり)と、加藤くん(鉱山学部電子工学科1回生、年齢は私より1つ上、ベース)と私の3人でバンドを結成する。
当初「ボタン・ダウン・ブルース・バンド」という名称だった。(3人ともアイビーっぽい服が好きだったので)しかし、当時人気があった「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」(宇崎竜堂の)と紛らわしいし、ポリシーがないので、すぐに「あしたのジョー」に改名。これは3人とも心酔していたちばてつや作のボクシングマンガによるもの。不器用でも白く燃え尽きるまでやるという気持ちを表現したものでもあった。
既存のバンドのコピーはやらなかった。やるだけの技術がなかったのも事実だが、自分を表現するのに他人のものを借りる必要はないということでオリジナル一本でやることにした。作詞作曲はほとんど私。この頃はろくに授業にも出ず、部室(今は焼失してしまった北側のサークル棟にあった)で練習するか、メンバーの部屋で深夜までレコードを聴いたりミーティングしたりという毎日だった。(3人ともやりたいジャンルが違うので、自分の好きなものを多く聴かせた方が勝ちだった)
当時(1974)秋田市では、秋大ロック研初代部長の岩城吉映さん率いる「RED HOUSE」(ジミヘンのコピーが主)と、中通小学校卒業の高校生5人の「MID STREET」(ツェッペリンのコピー)の二つのバンドが実力派で、無明舎(現在、大出版社となったあれです。当時は「あんばいこう」氏が学習塾と古本屋をやり、現在の「あぶみ書房」の鐙さんがイベント企画をやっていた)の主催のコンサートをやったりしていた。
ヒット曲のコピーもできない「あしたのジョー」は相手にしてもらえず、いじけながらも練習と曲づくりなどをしていたが、「ヤマハ・アマチュア・ロック・コンテスト」というテープ審査の企画があり、それに応募することにした。
岩城氏のカセット・デンスケ(ソニーの名器でした)を借用しやっとのことで録音したのが、「どうも」「ふゆまつり」の2曲。「どうも」は、当時、一部のロックファンに人気のあった「外道」というバンドにかなり影響されたハードロック。「ふゆまつり」は他に似た雰囲気の曲はないのではと自負している。
74年の11月に録音し、テープを送ったが、冬休みになっても返事がない。「解散しようか」などと言い始めた年末にやっと封筒が。結果は「入賞」。最優秀賞・優秀賞ではないがひとまず評価してもらい、副賞としてマイクを貰う。
これでやる気も出た頃、RED HOUSE の岩城氏が75年2月から月1回の定例ロックコンサートをやることになり、弟バンドのような扱いで毎回出演させてくれるという話が舞い込む。(いわゆる前座だけど)それに向けていくつか曲も新しく作って、いよいよ75年2月22日、秋田市明治生命ビル7階ホールでステージデビュー。
この頃、新興勢力として「三井グループ」というバンドを作っていた三ツ井さんがギターで客演してくれる。彼は、東京の大学卒業後、第一製薬の社員として秋田市に来る。もともとブルースが好きで、秋田に来てからR&Bを主にするバンドを結成し、人気を得ていた。このしばらく後に退社し、川反6丁目のロックパブ「羅生門」のマスターなどしたあと、ABSでDJなどをやり、現在はABS社員。夜のTVロック番組のパーソナリティなどもやっていたからご存じかもしれない。後に私と「アップ・ウイズ・ア・ピープル」を組むことになる。
前座的な出演ではあったが、日本語のオリジナル曲を中心にしたためか、けっこう受けて、ファンもできた。
明治生命ビルでのコンサートは、2月、3月、4月と続いたが、岩城氏がプロを目指して、秋田市を離れることになり、幕を閉じる。この頃になると、あしたのジョー単独の人気も出てきて、75年には、セントラルデパートの開店記念のアトラクションとして広小路で演奏したり、全日本大学応援団フェスティバル(この年は秋田市が会場)のゲストで県民会館で演奏したり、太田裕美・ハイファイセットや矢沢永吉のコンサートの前座をやったりするようになった。
第2回目のコンサート前から、秋田大鉱山学部電気工学科の小田くん(私と同年齢、青森県出身)をギターに加えた。加入した時点では初心者であったが、持ち前のブルーズ感覚とじょんがらのソウル、それに長い髪で、次第に人気ギタリストに成長した。
75年夏休み後にパーカッションで斎藤くんが加入した。彼は私と同じ教育学部国語科で2つ年下の山形県酒田市出身である。もとブラバンのパーカッションをやっており、リズム感は抜群で、あしたのジョーがダンサブルな方向を目指していく上で強力な戦力となった。
75年末には、「あしたのジョー」「MID STREET」「メイクラブカンパニー(三井グループ改め)」が秋田市のアマチュアロック界のビッグ3となっていたが、その他にも高校生・社会人のバンドが次々と誕生していた。そこで、この動きを市内・県内に大きくアピールしようと、秋大ロック研が核になって「オール・アキタ・ロック・フェスティバル」という企画を行うことになった。
何もかも初めてのことで、死ぬほど苦労したが、75年の12月27日に秋田市産業会館大ホールで800人程の聴衆を集めて、5時間以上にわたって行われたこのイベントは大成功であった。
その後、76年に入っても活動を続けるが、5月の東北大学祭オールナイト野外コンサートの出演を最後に解散する。理由はポップ志向とジャズ志向という音楽性の違いだった。今、振り返ってみると、いちばん良かった時代だったし、いちばんいいバンドだったように思う。
【ZORO】
あしたのジョーのメンバー5人のうち、土志田さん、小田くんは「シン・シン」というバンドを作り、私と加藤くん(ベース)、斎藤くん(ドラムスに変わる)の3人は、秋田高専生で、それまで「LSD」というバンドでギターを弾いていた松岡くんを加えて「ZORO」(ゾロ)を結成した。
あしたのジョーの頃より、ポップ色が濃いバンドだった。アレンジの完成度などは、私が組んだ3つのバンドの中ではいちばん高かったように思う。
この頃は、私もいちおう大学の4回生となっていたが、ほとんど卒業する気もなく、広小路にあった協働社大町ビルのDJスポット「ヴァレンシア」などでDJをやったり、NHKFMやABS秋田放送ラジオにたまに出たりと、芸能人気取りの生活を送っていた。
「ZORO」のデビューは、76年の8月7日。竿灯の真っ最中に建設中のビルの地下で行った「川反カーニバル」だった。これは私と、照明集団「影法師」を主催する岩間さんという当時50歳位の新聞記者の人との企画だったが、コンクリートがむき出しの空間に手作りの凝った照明が輝き、仙台と青森からもアマチュアバンドを迎えてのコンサートはなかなか面白い企画だった。
「ZORO」は、約10カ月程活動し、77年5月、県民会館での矢沢永吉コンサートの前座を最後に解散する。このとき私は5回生になっていた。
【アップ・ウイズ・ア・ピープル】
ZORO解散後、すぐに結成したのが「アップ・ウイズ・ア・ピープル」である。当時「メイクラブカンパニー」を解散していた三ツ井さんといっしょに組んでみようということで始めた。あわよくばプロに、という気持ちもあったが、三ツ井氏も私も一応は当時の秋田市のアマチュアロック界の人気者で、評判にはなったが、音楽性はあいまいで、それぞれの人気におんぶした中途半端なバンドだったかもしれない。三ツ井氏はABSで番組を持っていたし、私も3カ月程、「タムタムタイム」という番組を持っていたりしたので、いわゆる地方マスコミとのこねがあり、秋田県代表としてロックコンテストの北東北大会や東北北海道大会にすぐ出場できたなど、オイシイ思いをした頃でもあった。
このバンドでは私はギターを持たず、歌専門だった。浮ついた生活の、かなりいいかげんな時期だった。
私がどうにか大学を卒業し教職につけることになり、78年3月、田中屋でのラストコンサートを最後に、私の学生バンド生活は終わりを告げる。
昭和53年〜 (教職について)
昭和53年3月、秋田大学を卒業。由利郡N町立H小学校の講師となる。
それまでほとんど生活の全てだったバンドをやめて、気が抜けたようになるが、月に2・3回は秋田市に出かけ、昔の仲間と会う生活。夏休みには、臨時編成の「アキラ&ティーチャーズペット」なんてバンドを組んで、八橋の野外音楽堂のコンサートに出たりもするが、ステージ活動はそれが最後。
自宅で貧弱な器材で多重録音をしたりしたのもこの頃。
昭和54年4月、Y町立M小学校に採用。その9月に結婚。サッカー部の担当で忙しい毎日。サッカーは全県少年大会で優勝し、全国大会(読売ランド)に参加。全国ベスト8となる。翌年には長男が生まれ、「おとうさん」になる。それでも2・3年は思い出したように多重録音をしてみたりする。
昭和57年4月、H町立O小学校に転勤。この頃になると自分でやる音楽からは縁が遠くなる。せいぜい、保健の先生に頼まれた「歯磨き運動」用の音楽を作って録音する程度。卒業式にはオリジナルの曲を作ってピアノ伴奏して歌わせたりはしたが‥‥。
昭和60年4月、H市立T小学校に転勤。30歳になり、地区の先進校での勤務ということで教職の方に少しは力を入れ始める。この年からパソコン(富士通FM−77)も始め、音楽からはかなり縁が遠くなる。
T小勤務三年目で国語主任となり、郡市の国語部幹事にもなり、バンド仲間と会うのもそれぞれの結婚式のとき位になってしまう。
パソコンもNECの98に寝返る。パソコン通信も始める(平成2年秋)
平成3年4月、新設のH市立O小学校の研究主任に。教職について13年だけで学級を持たない身になってしまい、淋しくも忙しい毎日。
なぜか「O音頭」という盆踊り風の曲を作るはめになり、演奏・歌全てを多重録音でやってしまう。この曲は毎年運動会やOフェスティバルなどことあるごとにスピーカーから市内に流される。
平成4年5月には長女が生まれる。長男のときから12年ぶり。
平成5年4月、Y町立Y小学校の教務主任となる。YAMAHAのシーケンサーの名器「QY300」とマルチトラックレコーダー「MT4X」を購入し、MIDIの打ち込みや、マルチトラックレコーディングができる環境になり、またぼちぼち音楽制作をしたりする。平成8年末にやっとWindows95を使えるパソコンを購入し、MIDI音源付きキーボードも加え、インターネットも始めて、ある程度本格的な制作や発表ができる環境が整う。(しかし、だんだん時間がなくなってくる)
平成9年4月、O町立I小学校教頭となる。当時、郡市内では最年少(42歳)。同年5月30日、ホームページを開設。その後、自作CD等も作成。
平成13年4月、N町立N小学校教頭に転任。
平成15年4月、K町立K小学校教頭に転任。平成15年12月にクモ膜下出血を発病。幸運にもほとんど後遺症もなかった。体調回復のため、平成16年度は1年間休職。
平成17年4月、N町立(現在はN市立)I小学校教頭として復職。病気上がりということで配慮してもらった比較的規模の小さい学校で、リラックスして勤務している。
【知り合いの現在】
あしたのジョー・ZOROでベースをやっていた加藤くんはヤマハ秋田店の店長を勤めた後、現在はヤマハ仙台店の店長。東北の中ではトップの位置にいるのだそうで、たいしたもんだ!
アップ・ウイズ・ア・ピープル等でいっしょだった三ツ井さんは現在ABSの正社員。たまに番組にも出るようだが制作の方をやっているようだ。
ヴァレンシア(DJスポット)でいっしょにやっていたのが「マルサン」。ラジオやテレビ番組の司会等の他、CMにも出ている。太った丸顔の・・・分かるかなぁ。彼には、私の結婚式の二次会を田中屋でやったときも(ほぼコンサートの乗りだったけど)司会をやってもらった。(秋田県では人気者だが、他県の人はあまり知らないかも)